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火曜日

西洋の思想




ヴォルフの自然法論について


 火曜日は、西洋の思想の日です。今日の題は、ヴォルフの自然法論について、です。ヴォルフは、近代の西洋において活躍した有名な人物です。
 ヴォルフは、道徳と法とを結び付けて考えます。道徳も法も、人間が遵守すべき規則です。人間は、道徳と法に従って生きるべきです。ヴォルフは、道徳と法を結合させて考えるのです。法は、国の中で定められた規則です。そして、道徳の場合は、国の会議の中で決定された規則ではありません。道徳の規則は、国会で話し合って決めたものではありません。しかし、人間は道徳に従って生きるべきです。国が決めた法律に従って生きることは当然のことです。人間は、道徳と法律に従って生きるべきです。人間は、道徳の規則と、法律の規則とが命令する事柄には、違反してはなりません。人間が従うべき規則として、道徳と法とは共通性を考えることができるのです。
 法律の規則の場合は、人工的な性質を考えることができます。法律は、人間同士の話し合いの会議で決定されたものです。それに反して、道徳の規則の性質は、自然的であると考えられます。道徳の規則は、人間同士の話し合いの中で決定されたものではありません。道徳は、人間の内面によって感じ取ることのできるものです。道徳は、人間の内面から自然に発生したのです。道徳は、人間の内面からの命令です。法律は、人間の外側からの命令であると考えられます。法律は、社会的な制度の一つです。法律は、人間が人工的に作り上げた、社会上の規則です。道徳の規則は、社会の中で人工的に定められたものではありません。法律は、人工的に作り上げた道徳であると考えられるかもしれません。法律と道徳とには、共通する性質を考えることができるのです。法律は、人間が定めた道徳です。人間は、人工的に、道徳の規則を作り出すことができるのです。人間は、自然法則から外れた行動をとることができます。法律は、人間の作り出す、科学技術のようなものです。法律は、人間たちの技術によって作り出された道徳なのです。法律は、人間社会の中の道徳です。
 しかし、人間たちが作り出す以前から存在する道徳も考えることができます。それは、自然な道徳です。人間たちが会議をする前から決まっているような道徳です。人工的な道徳とは異なる、自然の道徳です。自然の道徳は、人間の内面の中に見出すことができます。人間たちの会議によって、人工的に人間の内面が作られたのではありません。人間の内面は、人工的なものではありません。人間の内面は、自然が作り出したものです。そして、人工的な道徳は、人間の内面が作り出したものです。つまり、法律の根拠は、自然の道徳であると考えられるのです。法律は、人間の内面から生まれたものです。法律が人間の内面を作ることはできません。人間の内面は、法律の根拠となっています。そして、人間の内面は、自然を根拠として生まれたものです。人間は、自然に基づいて、人工的な制度を作り出したのです。人工的な制度の根拠を考えた場合、それは自然であることを人間は知ります。人間が作り出した法律に対して、疑問を抱く人物もいます。法律は、人間に規則を強制的に遵守させます。人間は、自分を束縛する存在を嫌うものです。人間は、自由に生きることを望んでいます。そのため、法律に対して批判的態度をとる人間もいるわけです。法律に対する批判に答えるためには、絶対的な根拠が必要です。自然の道徳は、人工的な法律の絶対的根拠となります。
 自然の道徳は、絶対的な根拠であると考えられます。絶対的な根拠には、人間は絶対に従わなければなりません。自然からの命令に、人間は違反することができないのです。ヴォルフは、神を考えています。ヴォルフは、法律に神の根拠を設定しています。人間にとっては、神が絶対です。神の存在を人間は批判できません。そして、国の法律も、神を根拠に持っているのです。そのため、ヴォルフは国の法律を絶対的な規則であると考えるのです。国の法律が人々に守られないようであってはなりません。人間は、納得できる根拠がなければ、命令には従わないものです。もしも、国の法律に根拠がなく、人間同士の勝手な話し合いによって決められた規則であるのならば、法律に違反する人物も出るかもしれません。なぜなら、人間同士で決めた規則であれば、変更することが可能だからです。変更できる規則は、絶対的な規則としては認められません。変更できる規則には、永遠の価値がありません。また、法律が人間たちの間で作られたものであれば、その法律には抵抗することが可能であると、人々は思うものです。人間は、絶対に倒せない相手を相手には選びません。人間は、倒せる可能性のある相手を反抗相手に選びます。人間は、相手が人間であれば、反抗する相手に選びます。そのため、法律の根拠が、人間同士の会議であれば、人々が法律に対して、反抗する事態を考えることができます。相手が人間集団であれば、こちら側も、人間集団を作って抵抗することができます。つまり、法律の根拠が人工的である場合、絶対的な根拠とはならないのです。絶対的な根拠は、自然に由来している必要があります。自然に由来した根拠であれば、人間の誰もが絶対的な根拠として認めることになります。
 ヴォルフの考える自然法とは、自然を根拠とした道徳です。自然な道徳が自然法です。自然な道徳は、万人が従うべき絶対的な規則です。それは、神が定めた規則です。人間であれば、誰もが自然な道徳には服従しなければなりません。そのような、自然な道徳を根拠とした法律であれば、人間の誰もが服従するはずです。つまり、自然な道徳と一致する法律が、理想の法律であると考えられるのです。ヴォルフは、道徳と法を結合させて考えます。道徳と法とを、内的規範と外敵規範とに分けて考える学者もいます。道徳は、人間の内面の問題であり、そして、法律は社会的制度の問題であると考えるのです。それは、道徳と法を分けて考える態度です。「道徳と法律を、一緒に扱うべきではない」という考え方です。ヴォルフは、道徳と法律を一緒に考えます。ヴォルフは、道徳を、神が人間に課した義務であると考えます。ヴォルフの考える道徳とは、人間が絶対に守るべきである、義務です。そして、法律は道徳を根拠として生まれるものなので、法律の規則を絶対的であるとヴォルフは考えます。つまり、ヴォルフは、国が定めた法律を絶対であると考えているのです。国が定めた法律の規則を破ることは許されません。
 ヴォルフの自然法論にある問題は、道徳に自由を考えないことです。ヴォルフの道徳には、自由がありません。ヴォルフは、道徳と法律を結合させています。道徳の実行に自由を求める態度であれば、道徳と法律とを一緒に考えるべきではありません。国の法律に従うことの中には、自由がありません。法律の規則に従うか否かは、選択の余地がありません。法律には、絶対服従すべきことが要請されています。そのため、法律に対して否定的な心情を持っている場合でも、法律には従うことになります。つまり、法律の命令に強制されて、心の中では望んでいない行動をとる問題を考えることができるのです。その行動は、自発的ではありません。道徳的行為は自発的行動であると考えるのであれば、道徳には自由が必要です。ヴォルフは、道徳を義務であると考えます。義務の中には、自由がありません。自由のない行為は、心の入っていない、強制的な行為です。ヴォルフの主張する道徳の問題点は、強制的な道徳の部分です。道徳は、人間に強制的に行わせるべきものなのでしょうか。法律であれば、強制的な性質も必要であると認められます。しかし、強制的な道徳は、真の道徳と呼べるのでしょうか。自由のない、義務的な道徳では、心が入っていません。道徳と法律を一緒に考えれば、道徳の成立に自発性の条件を外すことになります。心が入っている道徳には、自発性があります。








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