土曜日
現代の思想
ウィトゲンシュタインの「沈黙」について
土曜日は、現代の思想の日です。今日の題は、ウィトゲンシュタインの「沈黙」について、です。ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』という著書で有名な人物です。
ウィトゲンシュタインは、言語を批判します。そして、ウィトゲンシュタインは、「語りうるもの」と、「語りえぬもの」とを区別することに対して力を注ぎます。ウィトゲンシュタインにとっては、「語りうるもの」と、「語りえぬもの」とを、区別することが重要な問題でした。ウィトゲンシュタインは、言葉、言語、論理を研究する人物でした。そして、言語によって、何を語ることができるのか、また、何を語ることができないのかを、ウィトゲンシュタインは問題とします。ウィトゲンシュタインは、言語を使用できる、限界や範囲を明らかにすることを考えました。
言語によって、語ることができるものと、できないものとがあると、ウィトゲンシュタインは考えるのです。ウィトゲンシュタインは、言語の持つ機能の特性を、把握するべきことを人々に訴えるのです。言語を使用する際には、注意が必要なのです。言語で語ることができるものは、論理的世界の中のことのみです。論理的世界とは区別される範囲の事柄に対しては、言語では語ることができないのです。言語が相手にできる世界は、論理的世界のみなのです。そして、「語りえぬもの」に対しては、「沈黙」しなければならないと、ウィトゲンシュタインは考えます。つまり、言語は万能ではない、ということです。言語の能力にも、限界があると考えるのです。
そして、ウィトゲンシュタインの研究対象は、言語の持つ機能の問題であるのですが、しかし、ウィトゲンシュタインは、単なる言語研究家だったのではありません。ウィトゲンシュタインは、論理学の研究者でまとめられる人物ではありません。ウィトゲンシュタインは、論理学を研究すると同時に、倫理学を重視するのです。見方によっては、ウィトゲンシュタインの論理学は、倫理学であるとも考えられるのです。ウィトゲンシュタインの論理学は、最後に言語を否定します。そして、最後は、「沈黙」をするべきであると主張して終わるのです。「沈黙」は、言語否定の態度です。普通の論理学であれば、言語の使用を、拡大させることを考えるものです。普通の論理学であれば、人々に、雄弁に物事を語るように勧めます。言語を積極的に使用させることを考えるのです。言語使用の推進を、一般の論理学であれば主張します。しかし、ウィトゲンシュタインの論理学は、人々に、言語の使用を制限させて、「沈黙」するべきことを主張します。その部分が、ウィトゲンシュタインの論理学の、他の論理学とは異なる部分です。ウィトゲンシュタインの論理学には、人々を「沈黙」させる部分があるのです。その論理学は、論理学を否定するわけです。
ウィトゲンシュタインの論理学が論理学を否定する理由は、言語の使用を制限するためです。言語を使用することのできる領域と、できない領域が考えられるのです。ウィトゲンシュタインは、言語使用の範囲を定めることが目標だったのです。ウィトゲンシュタインの主張では、言語使用の可能な範囲を超えて言語を使用した場合、その言語は無効であると考えるのです。言語を使用するべきではない範囲に対しては、「沈黙」するべきなのです。言語では、「語りえぬもの」があるのです。その「語りえぬもの」は、倫理学であると、ウィトゲンシュタインは考えます。
つまり、ウィトゲンシュタインの論理学の中には、倫理学が入っているのです。ウィトゲンシュタインは、表面的には、論理学を研究して重視する態度を見せています。それは、「語りうるもの」の部分です。しかし、ウィトゲンシュタインの特に強調する部分は、「語りえないもの」の部分なのです。ウィトゲンシュタインは、言語では「語りえないもの」があることを、強く主張するのです。一般的な論理学であれば、言語至上主義をとるものです。言語で表現できないものはないと考えるのです。一般的な論理学であれば、「沈黙の必要はない」と考えます。沈黙していれば、論理学の研究対象とはなりません。論理学は、言葉を研究の対象とするものです。沈黙には言葉がありません。しかし、ウィトゲンシュタインは、「沈黙」の中に倫理学があると考えるのです。ウィトゲンシュタインは、倫理学を大切にします。言語によって、全てのことが表現できるものではないと、考えるのです。
ウィトゲンシュタインの世界観では、言語を非常に重視して考えます。言語と論理の世界観をウィトゲンシュタインは持っています。ウィトゲンシュタインは、世界のことを、論理の支配する世界であると考えています。その世界は、言語の世界です。その世界の範囲の限界は、言語の使用可能な範囲です。そのような、論理的世界の中に人間は生きていると、ウィトゲンシュタインは考えるのです。論理的世界の範囲を対象とする事柄であれば、言語によって語りうるのです。論理的世界に対しては、沈黙の必要はありません。それは、科学の研究対象でもある世界です。論理的世界は、科学の成立する世界です。しかし、科学を超えた世界もあると、ウィトゲンシュタインは考えるのです。科学では解明できない世界です。科学では解明できない世界に対しては、言語では語ることができません。その世界は、倫理学の世界です。倫理学の世界は、論理学の対象ではありません。
ウィトゲンシュタインは、論理学の成立する、不可能な範囲を考えたのです。論理学は、「語りうるもの」だけを対象とすることができます。「語りうるもの」の対象は、科学の成立する対象でもあります。つまり、論理学の適用可能な範囲は、科学の世界の範囲であると、ウィトゲンシュタインは考えるのです。科学の世界の範囲でなら、使用された言語は誤りではありません。しかし、世間を広く見渡せば、言語を誤って使用する人々が大半を占めているのです。ウィトゲンシュタインは、人々の言語使用の誤りに対して、憤りを感じていたのです。人々は、無制限に言語を使用することが多いものです。言語では表現できない「語りえぬもの」に対して言語を使用した場合、その言語は、意義のない言語なのです。
つまり、多くの人々は、「沈黙」すべき事柄に対して、盛んに議論を展開していると、ウィトゲンシュタインは考えるのです。世間の多くの人々は、言語に対する批判が足りないのです。言語にも、表現の可能なことと、不可能なことがある、と考えるのです。多くの人々は、軽々しく発言を行うものです。ウィトゲンシュタインは、言語の持つ機能の上では、問題の対象にはできないことを考えるのです。ウィトゲンシュタインは、世間の人々が考える問題に対して、問題設定自体が間違っていると指摘するのです。意義のない言語を使用することが間違いの始まりです。問題を考える、最初の段階から間違っていたのです。
世間の人々は、決着のつかない議論を行っているものです。その原因をウィトゲンシュタインは追求したのです。原因は、言語にありました。言語の機能の特性を考えれば、決着のつかない議論となる原因を、理解することができます。言語を使用した議論によって、解決できるものと、解決できないものとがあります。言語の対象として、可能な範囲と、不可能な範囲とがあります。言語には、超えられない壁があると、考えるのです。確かに、言葉だけでなら語ることができます。言葉だけであれば、壁を越えることは可能です。しかし、その場合、言葉だけが壁の向こう側へ行くことになります。「語りうるもの」と、「語りえないもの」とがあることを、正しく認識するべきなのです。人間は、言葉の限界を考えなければなりません。
当ホームページ内の文章の引用・転載を禁止します。(C)matsui genemon.