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水曜日

東洋の倫理・道徳




程明道の「敬義」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、程明道の「敬義」について、です。程明道は、中国の北宋時代において活躍した有名な人物です。
 程明道は、「敬」と「義」によって、人間の修身を考えます。「敬」は、人間の内面を大切にすることです。「義」は、人間の外面を大切にすることです。つまり、程明道は、人間の、内面と外面との方向から、修身を考えるのです。「敬」と「義」の、どちらか片方だけでは、人間の修身としては不足したものです。
 程明道の考える「敬」と「義」は、「仁」から発生したものです。程明道は、「仁」を人間の精神の最上級の価値と考えます。「敬」と「義」は、「仁」を実現するための心持ちであると考えられます。人間の修身の最大の目標は、「仁」を実現することです。「仁」が実現できれば、細部の事は問題ではありません。なぜなら、「仁」から、「敬」も「義」も、そして、その他の、「礼」、「知」、「信」などの人間精神が発生したからです。つまり、「敬」は「仁」であり、「義」は「仁」であると考えられるのです。程明道は、全ての人間精神は、「仁」から発生して、そして、最後には「仁」に行き着くと考えるのです。人間が達成するべき徳目としては、様々な価値を考えることができます。有名な徳目は、仁、義、礼、知、信です。しかし、程明道は、「仁」さえ達成できれば、徳目を細かく考える必要はないと考えるのです。程明道は、「仁」を人間精神の最大の価値と考えています。その「仁」は、人間全体に共通する、普遍的な精神です。それは、天から人間が授かったものです。人間は、天から「仁」の心を授かり受けているのです。「仁」の心は、人間の誰もが持っています。それは、人間の心の本体です。その「仁」の本体から、様々な、細かな人間の心持ちが分化したのです。つまり、人間の心は、本来、「仁」であったのです。本来は、人間は天から授かった、「仁」の心で生まれて来たのです。全ての人間は、「仁」を持っています。その心を、人間は表すことが重要です。修身は、全ての人間にある、「仁」の心を、そのまま追求するだけの話です。つまり、数ある修身の種類に惑わされてはならない、ということです。学者によって、修身に対しては、異なる方法が主張されるものです。そのため、修身には、多くの種類を数えられるのです。しかし、人間の修身の最大目標は、「仁」の達成です。そのことを、人々は忘れてはなりません。程明道も、修身の方法を考えているのですが、しかしその修身を、絶対の修身と考えるべきではありません。それは、様々に考えられる修身の方法の中の、一例の修身方法であると考えるべきです。修身の目標は、「仁」を貫くことです。程明道の修身方法を、絶対唯一の修身方法であると、固定的に考えるべきではありません。程明道の修身方法は、一つの、参考にすべき修身方法です。それは、程明道自身の「仁」の説から考えられた修身です。程明道は、人間の心は天から授かった「仁」であると考えています。そのため、「仁」を達成することが、人間の修身の最大の目標であると考えられるのです。
 人々は、修身の方法の、数ある種類に惑わされるものです。しかし、種類の数は、分化の結果なのです。修身の本来の目標は一つでした。その一つの目標を達成するために、修身方法が数多く考え出されたのです。つまり、数多くある修身は、共通の目標を持っているわけです。それさえ理解することができれば、数多い修身方法の種類に惑わされることがありません。数多くある修身は、共通の一つの目標を持っています。共通の目標は、「仁」の達成です。それは、修身を行う上で、修身に対して疑問が生じた場合に、立ち返るべき原点です。修身では、人間に厳しい実践が求められます。そのため、修身の実践者は、修身を投げ出したい気持ちに陥る場合があります。修身に対して、疑問が生じるのです。その際には、修身の出発点の、根元に立ち返るべきです。修身の出発点は、「仁」を実現させることです。「仁」は、人間の根本的な精神です。それは、天から、全ての人間が授かった心です。「仁」の根拠には、天を考えることができるのです。天の根拠は、根拠としては最高のものです。天は人間にとって最高の根拠となります。その最高の根拠から、「仁」の心が人間に与えられたのです。つまり、人間の「仁」の心は、天の心と等しいのです。それを考えれば、修身に対する疑問も、全て解消することになります。数多くの、分化された部分だけを見ていれば、修身に対する疑問は解決されません。程明道の考える修身は、人間精神の根本的な部分を考えた上で考案された修身です。そのため、程明道の考える修身には、しっかりとした基礎があります。程明道の修身には、確実な土台が考えられています。
 程明道の修身は、「仁」の修身です。「仁」が、人間精神の究極的な価値です。それは、程明道の世界観とも矛盾のない考えです。人間の修身を、自分の世界観から考え出すのです。人間の修身は、世界と切り離して考えるべきではありません。人間が、世界と矛盾なく実践できる修身でなければ、本物ではありません。世界の在り方と矛盾するような修身では、底の浅い修身であり、人間の人格の向上に対して、真に寄与することがありません。世界の根本的な在り方に従った修身は、人間の一生涯をかけて追求するべき、奥深い修身となります。底の浅い修身では、趣味と同じような結果を生み出します。修身を趣味と同じように扱うことは避けるべきです。趣味には、奥深い根拠がありません。趣味は、手軽に始めて、手軽に投げ出してしまうものです。それは、趣味を行っている途中で、趣味に対する疑問を解決できないからです。趣味には、奥深い、根元的な土台がないのです。永続的に行う場合に求められる根元的な土台は、世界の根拠と結び付いた土台でなければなりません。程明道の修身は、世界の根拠に基づいた修身です。程明道の修身は、世界と人間の関係を根本的に解き明かした上で考えられたものです。世界の根拠の土台が考えられていない趣味では、長続きしません。
 程明道の修身には、世界を根拠に持つ、「仁」が土台となっています。そのため、揺らぐことのない態度で、安心して修身に励むことができます。程明道の修身は、「敬」によって内面を正しくして、「義」によって外面を正しくすることを考えます。人間の内面の心は、「仁」とつながっています。人間は、「仁」に基づいた心を持つべきです。「仁」を明らかにする、内省行為が、「敬」です。人間は「敬」によって、自分の内面を常日頃から、反省するべきなのです。人間には、「仁」の心が宿っています。誰もが「仁」の心を持っています。その「仁」の心を忘れないためにも、「敬」によって、常に自分の心を反省しておく必要があります。そしてまた、人間は内面を大切にすると同時に、外面も整える必要があります。外面は、「義」によって正しくします。「義」は、内面を栽培するものであると、程明道は考えています。内面を栽培することが「義」の目的です。
 まず、程明道は「仁」を絶対の真理として考えます。その絶対の真理は、人間の心の中にあります。それを、「敬」によって反省することで、人間は「仁」の真理を理解することができます。そして、その内面の真理を、「義」によって栽培することで、人間は修身を達成できるのです。人間の内面に、真実があるわけです。それは、大きく育てなければ、未熟な場合もあります。確かに、真実であることには変わりないのですが、しかし、未熟な状態では、充分ではありません。そこで、成長の必要性があるわけです。常に、人間は成長と発展を考えなければなりません。成長と発展は、「義」を行うことによって可能となります。「義」は、内面を栽培する精神です。栽培することで、大きく成長し、引き伸ばされることになります。つまり、「敬」と「義」を繰り返せば、人間は成長し続けることになります。








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