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水曜日

東洋の倫理・道徳




程伊川の「性則理」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、程伊川の「性則理」について、です。程伊川は、中国の宋朝時代に活躍した、有名な人物です。
 程伊川の「性則理」の説は、人間の性善説とも結び付いています。人間の「性」は、「理」である、ということです。その、「理」というものは、天の宇宙の原理であり、「道」のことであると考えられます。程伊川の考える「道」とは、目で見たり、言葉で表現したりすることのできないものではあるけれども、しかし、その「道」から宇宙全体が発生するものです。程伊川は、宇宙の根本原理として、「道」というものを考えているのです。そして、程伊川は、「理」が「天」であると考えます。「天」を、「道」であるとも考えられるかもしれません。その「天」の「理」が、人間の「性」であると程伊川は考えます。人間は、「天」から「性」を受けたのです。そして、程伊川は、その「性」を「理」であると考えているわけです。人間の性は、天から授かったものであるという考えです。そして、天は善であるので、人間の性も、善であると考えるのです。
 人間の「性」の根拠は、「天」なのです。そのため、人間の本来の性質は、善であると考えられるわけです。全ての人間の性質が、善性なのです。人間として生まれた者の、本来の心の性質は、善性であると考えるのです。例外なく、人間の本来の性質は善なのです。人間として、善性を持って生まれたり、悪性を持って生まれたりする区別はありません。天は人間を差別しない、という考えです。天は人間を差別しないのです。天は、全ての人間に、善性を与えているわけです。そしてまた、「天」は「理」であるとも程伊川は考えています。その「理」が「性」なのです。そのため、「天」は「理」であり、「理」は「性」であると考えられるのです。つまり、人間の性質は、天から受けたものでありながら、天の性質を有していると考えるのです。人間の本来の性質は、天の性質を持っているのです。そのような人間の、本来の心の姿は、善なのです。本来の人間は、天使の心を持っているのです。
 しかし、多くの人間の中には、悪人の存在を見ることができます。そのような、悪人の存在に対しては、程伊川はどのように考えるのでしょうか。程伊川は、人間の心を、根本的には善であると考えています。そのため、人間の悪の心は、表面的なものと程伊川は考えるのです。
 人間の心を悪い心にするものは、「気」であると、程伊川は考えます。人間は本来、善性なのです。全ての人間の心が、善性なのです。しかし、「気」の状態が悪いものになれば、人間の心は悪くなるのです。つまり、人間の本来の心を発揮できれば、善の心が表現されるわけです。しかし、「気」の状態が悪ければ、本来の、善性の心が汚く見えるわけです。表面的に、汚い心に見えるのです。本当は美しい心が、濁った「気」によって、表面に表れない状態となるのです。例えばそれは、美しい月が、雲に隠されているようなものです。人間の「性」は、「理」であり、「天」であり、絶対的な、最上の存在です。しかし、「気」には、清濁があるのです。つまり、「気」は煙のようなものであると考えられるのです。煙がなければ、遠くまで見えるのです。晴れの日には、富士山を見ることができ、そして、曇りの日には富士山を見ることができない、ということです。その場合、富士山が「性」であり、富士山を覆い隠す雲が「気」であるわけです。つまり、「気」を浄化することができれば、人間の本来の、善性の心を表すことができるのです。いくら美しい宝石であっても、ほこりをかぶっていれば、表面的には汚いものに見えるのです。
 つまり、人間の心を、掃除する必要があるわけです。人間の本来の心は、善性なのです。その本来の姿が、外からでも見える状態にするべきなのです。積もった砂ぼこりを、取り払うのです。人間の心は、本来の状態であれば、美しいのです。しかし、問題は、砂ぼこりなのです。砂ぼこりを取り払うことさえできれば、美しい心が表れ出るのです。心そのものは、善性の心なのです。しかし、「気」の状態が悪ければ、濁って視界が悪くなり、本来の心の姿を見ることができないのです。そのため、「気」の状態を、常に清明な状態に保ち続ける努力が必要です。それ自体は美しいものであったとしても、汚れが積もっていれば、その本来の美しさを見ることができないのです。つまり、人間の本来の善性の心を、表現し続けるためには、人間の「気」の状態を、浄化し続ける必要があるのです。
 そのような「気」は、物質的なものに近い存在であると考えられます。「理」の場合は、見ることも、手で触れることも、言葉で表現することもできない存在です。しかし、「気」の場合は、人間の感じることのできる存在であると、考えられます。「気」を、人間は感じることができるのです。そのため、「気」は、人間が手に触れることのできる、物質的な存在と、近い存在であると考えられるのです。「理」は、人間では感じ取ることができません。つまり、「理」と「気」とは、異なる存在なのです。「理」と「気」とが異なるのであれば、「性」と「気」とも異なるものであると考えられるのです。つまり、心の状態と、気の状態とを、区別して考える姿勢が程伊川にはあります。「気」は、人間にとって、肉体的なものと精神的なものとの、中間に位置するような存在です。「気」は、人間にとって、純粋に肉体的なものでもなければ、純粋に精神的なものでもない存在です。人間にとって、純粋に精神的な存在は「理」であり、「性」であると考えられます。
 人間にとって、純粋な精神こそ、人間の本来持っている、天から受けた「性」なのです。それは、人間には感じ取ることができないのです。しかし、それを感じ取ることができるのかもしれないのです。人間が持つ、天から受けた「理」を、感じ取ることができれば、最高なのです。程伊川は、人間の心の「理」を、深く感じ取ることが重要であると主張します。人間は、自分の心の中にある、天から受けた「理」を、深く知るべきであると、程伊川は考えています。「理」は、自分の心の内部に存在するものです。人間の生きるべき道は、「理」に従った生き方をすることです。その「理」が、人間の心の中に存在するのです。
 つまり、程伊川は、自分の心の外部に、生きるべき道を求めないのです。自分の心の中に、天の道が存在しているのです。程伊川は、心の内部を、深く知ることに努めるのです。そして、天の道を理解することが大切です。人間の理想の生き方は、天の道に従った生き方をすることです。しかし、天の道を知ることは、人間にとっては、雲をつかむような話です。人間が天の道を知ることは、不可能なことであるのかもしれません。一般の人々の中では、天の道を知る人はいない、と考えられます。程伊川も、果たして、天の道を知ることができたのかどうか、疑問に思える部分です。しかし、程伊川は、天人合一の人生を、理想の生き方であると考えていました。天人合一の生き方は、善性の心を持つ人間であれば、可能である生き方です。人間は、天から受けた性を持っているので、天人合一の人生は可能なのです。
 つまり、程伊川は、天を人生の拠り所として生きるわけです。程伊川は、天の生き方を理想と考えるのです。しかし、天の道というものが、人間にとっては最大の謎なのです。人間は、天の道を知ることに努めて、天の生き方をするべきです。そのために、人間の心の内部を、深く反省するのです。心の外に、天の道はない、と程伊川は考えます。天の道は、「理」であるわけです。「理」は「性」です。それは、人間の心のことです。天から、人間は「性」を受けているのです。天から受け取った自分の「性」を、深く知ることです。自分自身のことを深く知るのです。理想の人生を、自分の心の中に見つけるのです。








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