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金曜日

西洋の倫理・道徳




スピノザの倫理学について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳について考えます。今日の題は、スピノザの倫理学について、です。スピノザは西洋の思想家として有名な人物です。
 スピノザの倫理学には、神が登場します。人間の幸福と善とは、人間と神とのかかわりの中で見出されます。スピノザの倫理学は、人間と神との結びつきの中で発見されるものです。人間のことと、神のこととを考えるのが、スピノザの倫理学です。そして、人間は神について考えることが幸福であり、また、善なのです。神を正しく認識することが、人間に幸福と善とをもたらすのです。つまり、スピノザの倫理学には神の存在を欠かすことができないのです。深く神の存在を認識しなさい、という教えです。そして、正しく神の存在を把握できた時、人間には幸福と善とが与えられるということです。
 確かに、スピノザの考える倫理学の説にも一理あります。つまり、神という存在は、究極の幸福と、究極の善とを持つ存在だということです。それだから、そのような神の存在を認識することが、人間に幸福と善とをもたらす、というように考えられるのも当然です。神という存在は、究極の幸福と善を持つ存在なのです。そのような神を正しく認識することができれば、人間には最大の幸福と善とが得られることになるのかもしれません。それは確かに考えられることです。スピノザの考える通りです。
 それは比較すれば納得できるのかもしれません。まず、日常生活の中で、世間の人間社会の活動についてのみ考えながら生きる人間です。そして次に、日常生活の中で、究極の幸福と善とを持つ神の存在を、正しく認識することに努めながら生きる人間です。どちらの人間が、より幸福であり、また、より善である人間になれるのでしょうか。人間社会の活動についてのみ考えながら生きる人の場合は、平凡な人間であるようです。しかし、究極の存在者である、神のことを認識しようと努めながら生きる人の場合は、非凡な人間になると思われます。そのような非凡な人間は、確かに、平凡な人々の集団からは離れてしまうのかもしれません。神のことを考えるにあたって、幸福でも善でもないと考えられる理由には、そのような、大勢の人たちから孤立してしまう、ということが考えられるのかもしれません。しかし、大勢の人の集団の中で、人間社会の出来事についてのみ心を奪われて生きる、という人は、本当に、幸福であり、善である人間なのでしょうか。そのような人は、きっと、多くの悩みや不安を抱えて生きていたりするのです。
 つまり、人間社会の中で生活しながら、少しでも、究極の存在者である神のことについて考えても良いのではないか、ということです。人間社会を捨てて、宗教団体に出家するべきだ、ということではありません。人間社会の中で生活しながら、神の存在について、少しぐらいは考えられるだろう、ということです。人それぞれの考え方で、神の存在を否定するのなら、否定をするという考えを持つこともできるのです。そして、神の存在について日常生活の中で深く考えることにより、その人の心が豊かになる、という可能性もあるのです。それをスピノザの倫理学からは学ぶべきなのです。日常生活の中で、神のことについて深く考えようとする姿勢です。神のことを考えない人生よりも、神のことを考える人生の方が、もしかすれば幸福な人生を送ることができるのかもしれないのです。
 そのような神の存在を考えるということは、人間の幸福と善についての、究極の根拠を考えることになるのかもしれません。人間の幸福と善の根拠を考えなければ、人間は幸福も善も得られないのかもしれません。スピノザの考える神は、世界の全ての根拠となる存在です。つまり、神こそが世界なのです。世界は神の表現だということです。そして、そのような神を正しく認識することが、人間の幸福と善であるとスピノザは考えるのです。それはつまり、有限の存在者である人間が、無限の存在者のことを考えて安らぎを得ようとする態度であるのかもしれません。人間は、もっと大きな存在者のことを考えるべきであるという教えです。
 つまり、日常生活の人間社会の中で、より偉大な対象について考えを深めるべきだ、ということです。神は永遠の存在であるとスピノザは考えるのです。人間は、時間に追われて日々を送っているのです。限りある時間です。そしてまた、限りある資源です。そのような、限りある資源を奪い合いながら、人間は競争して生きていたりします。人間の心は、けちだということです。人間の心は狭いのです。そのような小さな存在者である人間たちのことばかり考えて生きるよりも、何でも人間に分け隔てなく、無償で与えてくださる、偉大な神のことを考えましょう、ということです。そのような神を人間が認識するということは、人間が永遠の存在者と出会うということと、同じことなのです。永遠の価値との出会いです。そのような、永遠の価値こそ、人間が追求すべきものなのです。それはつまり、人間がそのような、永遠の価値を認識することが可能であるならば、それは人間にとってどれだけ幸福であるものか分からない、ということです。神の認識は、人間にとっての最大の幸福と善である、というわけです。
 つまり、スピノザの倫理学から学ぶべきものとは、「人間は究極の存在者と交流を深めるべきだ」ということです。それが人間にとっての最大の幸福と善である、ということです。それは、宗教団体に出家することなく、日常生活の中でも実践できることです。神との交流です。神を正しく理性で認識するのです。自分の心と神の心との触れ合いです。もしも神の心を感じることができれば、それは人間にとって、計り知れない幸福と善である、ということです。








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