木曜日
東洋の思想
荘子の「蝴蝶之夢」について
木曜日は東洋の思想です。今日は、荘子の「蝴蝶之夢」について考えます。この話は、夢の中で、荘子が蝶になったという話です。
重要な点は、夢の中で、荘子が蝶の飛んでいる姿を見ている、というものではなくて、荘子自身が、蝶になって飛んでいる、という点です。その点を間違えてはならない、というところが重要な点です。荘子の見た「蝶の夢」は、荘子が人間のまま蝶を見たというものではありません。その部分はしっかりと理解しておくべき重要な点です。
荘子が人間のままで、蝶の飛んでいる夢を見た、という話であれば、普通の話なのです。普通の話であり、全然、楽しい話ではないということなのです。蝶が飛んでいる夢の話などは、おもしろい話ではないわけです。蝶がどれだけ飛んでいようとも、自分とは関係のない話です。人間と蝶とでは、その種族が異なっています。人間の住む世界と、蝶の住む世界とでは、住む世界が違うのです。それぞれが、別世界を生きているのです。人間には人間の生き方、蝶には蝶の生き方というものがあり、それぞれ別の生き方をするものです。蝶がいくら飛んでいようとも、自分はそれとは関係なく、人間の世界で人間の生活をするだけの話です。
しかし、この荘子の「蝴蝶之夢」の話では、荘子は人間ではなく、蝶になっているのです。蝶になって、楽しい思いで飛んでいるのです。その話は、蝶が飛んでいるからおもしろいのではなくて、荘子が蝶になって、実際に飛ぶところがおもしろい話なのです。荘子が、人間の世界の住人ではなく、蝶の世界の住人になるところがおもしろいのです。荘子が人間をやめてしまったところに、人々の注目が集まっている話なのです。
そのような夢を荘子が見たということは、その夢は荘子の願望の現れたものだったのかもしれません。常日頃から荘子は「蝶になりたい」と思っていたのかもしれません。それだから、荘子は蝶になる夢を見たのかもしれません。貧乏人が億万長者になる夢を見るようなものです。選挙に出る人が、自分が当選した夢を見るようなものです。つまり、現実逃避の夢です。つらい現実から離れたい、ということです。荘子の場合も、「人間のつらい生活なんて嫌だ、蝶になって飛んでいたい」と思っていたのかもしれません。
人間の社会というものは、非常にわずらわしいものなのです。社会の制度や、人々の常識などというものに、縛りつけられるのです。自由がないのです。もっと、伸び伸びとした生き方をしたい、という願望を抱くものです。その願望は、荘子だけが持っていたものではなくて、多くの人々も持っている願望だったというわけです。それだから、この荘子の「蝴蝶之夢」の話は多くの人々の共感を得て、多くの人々の心をつかんで離さない、ということなのです。人間の社会の制度の中で生きるという、小さな生き方よりも、もっと大きく、自由に生きよう、ということです。
それは確かに、人間の世界からは逃避しようとする、否定的な面があります。しかし、積極的な面として、荘子の、もっと大きく、自由に生きようとする姿勢も感じられるものです。荘子は、人間世界から、逃避しようとすることばかり考えていた、否定的な人間だ、という考え方だけで、荘子を読んではならないものなのです。荘子の積極的な解釈の仕方として、「荘子は小さな人間社会から、大きく超え出ようとしている」と、考えられるのです。
世間一般の人々は、荘子から見れば、小さな考え方を持ちながら、小さく生きているものだと見えるのです。荘子という人は、雄大な人間なのです。荘子は、雄大な心と考え方とを持つ人物なのです。世間一般の人々の想像をはるかに超えているのです。荘子は、人間の持つ、「常識」というものを、覆してしまうのです。人間というものは、そのほとんど全員の人が、人間の世界だけに通用する枠組みの中から物事を見ているのです。人間は、「真実は一つ」だというように考えているものです。しかし、その「真実」とは、「人間にとっての真実」なのかもしれないのです。人間だけの狭い視野からとらえられた真実です。そのような、人間だけに当てはまる、小さな真実にしがみついて生きているような人間では、荘子にとっては満足できるものではありません。荘子は、人間社会のしがらみにとらわれた、小さな生き方を嫌うのです。もっと大きく、自由に人生を楽しみたいのです。そして、世間の一般常識を超え出ようとするのです。
そしてその、荘子の一般常識の超え方というものは、並大抵のものではありません。私たちの常識の、根底を揺り動かすのです。それが、荘子の「蝴蝶之夢」にも表現されています。それによると、自分という存在は、蝶の夢の中の存在ではないか、というものです。「蝴蝶之夢」の話は、ただ荘子が夢の中で蝶になって楽しく自由に飛び回ったよ、という話ではないのです。その荘子の話は、私たちが、絶対に正しいと信じ込んでいる常識というものを、揺り動かすのです。それがまた、荘子の考え方の、雄大さというものなのです。つまり、私たちの考え方というものは、人間の常識にとらわれた、小さなものなのです。小さな考え方に、しがみつく考え方です。私たちはもしかすると、蝶の見る夢の中の存在なのかもしれないのです。私たちは、「そのようなことは絶対にあり得ない」として、自分が現在まで持ち続けている、古い考え方にしがみつこうとするのです。そのように、しがみつこうとする姿勢が、荘子にとっては、小さな人間に見えるのです。
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