水曜日
東洋の倫理・道徳
蘇東坡の「秦始皇扶蘇論」について
水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、蘇東坡の「秦始皇扶蘇論」について、です。蘇東坡は、中国の宋時代に活躍した人物です。
蘇東坡の「秦始皇扶蘇論」では、中国の秦の国が滅亡したことの原因を論じています。蘇東坡は、秦の国の滅亡の原因として第一に、皇帝が悪い臣下を任用したことを挙げています。そして、第二の原因として、秦の国が厳しい法律制度を設けたことを蘇東坡は考えています。
蘇東坡の主張では、秦の国の滅亡の原因として、大きく二つの原因を考えられるのです。そして、その二つの原因は、互いに結び付いているものと考えられます。法律制度は、人間が作り出したものです。法律制度は、勝手に生じたのではありません。人間が法律制度を整備したのです。その法律制度が、秦の国では厳しかったのです。秦の国は、非常に過酷な法律制度によって治められていたのです。過酷な法律制度が、秦の政治において有効に機能する面も確かにありました。しかし、秦の法律制度の過酷さは、行き過ぎていたのです。度を越した厳しさの法律制度では、秦の国自身を苦しめるのです。秦の国の政治家は、秦の国の政治のために法律制度を作ったのです。秦の国の政治家は、秦の国を滅亡させるために法律制度を作ったのではありません。しかし、秦の国のためを考えて作った法律制度が、秦の国自身を滅亡に導いたのです。政治家は、法律制度の運用に対して注意しなければなりません。法律制度の便利な面だけを政治家は見るべきではありません。過酷な法律が国を滅亡させる原因となるのです。政治家は国の発展を願って法律制度を設けました。その法律制度が、国の滅亡を招く原因となる事態も考えられるのです。国の滅亡を招く法律制度は見直さなければなりません。
そして、その秦の国の過酷な法律制度が、悪い臣下の存在とも関わっていると蘇東坡は考えます。蘇東坡は、悪い臣下と過酷な法律制度とが秦の国を滅亡させたと考えます。過酷な法律制度は、悪い臣下をも生み出したのです。秦の国にとって悪い作用をもたらす臣下が、過酷な法律制度を利用したのです。秦の国にとって悪い作用をもたらす臣下は、秦の国を滅亡に向かわせます。その悪い臣下は、善良な臣下を政治界から追放してしまいます。善良な臣下は、秦の国を発展に向かわせる存在です。秦の国は、善良な臣下によって発展があると考えられます。その善良な臣下を、悪い臣下が政治界から追放したのです。秦の国の政治界に悪い臣下が集まれば、秦の国は滅亡します。その悪い政治家を政治界の上層部に招いた原因は、過酷な法律制度にもあったと、蘇東坡は考えます。悪い政治家は、過酷な法律制度を利用して地位を得たのです。秦の法律が、国のためではなくて、悪い政治家の地位ために使われたのです。そして、秦の国が滅亡したのです。
蘇東坡は、秦の悪い臣下に対してはもちろんのこと、秦の始皇帝に対しても批判を行っています。秦の始皇帝が、悪い臣下を任用することがなければ、問題はなかったのです。秦の始皇帝は、悪い臣下の存在に対して油断していたのです。秦の始皇帝は、臣下の存在を軽視していたのです。秦の始皇帝は、悪い臣下が国を滅亡させる原因となることを考えていなかったのです。しかし、秦の国は悪い臣下によって滅亡の道を歩みました。悪い臣下は、秦の国の発展のことを考えていません。悪い臣下は、秦の国を滅亡させる行動をとります。秦の国の発展を考えるような善良な臣下は、かえって、政治界から追放されてしまいます。善良な臣下が存在しなければ、秦の国の発展はありません。そのため、秦の始皇帝は、善良な臣下を任用しなければなりません。秦の始皇帝は、秦の国の発展を考えて、政治界に善良な臣下を集めるべきです。そして、秦の始皇帝は、政治界から悪い臣下を追放するべきでした。それは、秦の始皇帝が油断していたからであると蘇東坡は主張します。秦の始皇帝は、臣下に対して注意が足らなかったのです。秦の始皇帝の油断が、悪い臣下を政治界で活躍させる結果となったのです。善良な臣下の力があれば、秦の国は滅亡することがなかったと蘇東坡は主張します。秦の始皇帝は、秦の国の存続と発展に対して、臣下の影響の大きさを深く考えなければならなかったのです。悪い臣下が国を滅亡させる事態を、秦の始皇帝は深く考えるべきでした。秦の始皇帝は、日頃から悪い臣下に対して用心しているべきでした。臣下としては要注意人物であると考えられる人間を、始皇帝は見抜くことができなければなりません。
蘇東坡の「秦始皇扶蘇論」に登場する扶蘇という人物は、秦の国の善良な臣下であると考えられます。扶蘇が政治を行っていれば、秦の国は滅亡することがなかったと蘇東坡は主張します。扶蘇は悪い臣下によって陥れられた人物です。蘇東坡は、扶蘇が悪い臣下に陥れられた原因を、秦の過酷な法律制度にも考えています。過酷な法律制度が、善良な臣下の扶蘇に対して悪い作用をもたらしたのです。秦の政治は、法律制度に頼り過ぎたのです。秦の始皇帝が、法律制度の便利な面だけを見ていたのかもしれません。法律制度が意外なことに、政治界に対しても影響を及ぼしたのです。法律制度が、民衆たちだけを苦しめなかったのです。法律制度が、政治界まで苦しめたのです。秦の国の法律制度が、厳しすぎたのです。法律が厳しかったので、善良な臣下までもが処刑されてしまうのです。厳しい法律によって善良な臣下が処刑されることは、その国の発展にとっては望ましい事態ではありません。善良な臣下に対しては、温情を与えるべきです。善良な臣下を助けるような法律制度を秦の国は持っているべきでした。扶蘇のような善良な臣下を、秦は助けるべきだったのです。法律制度の厳格性は、当然、保持されるべきです。しかし、厳格な法律制度の運用の際には注意すべき点もあったのです。法律制度が、法律制度を作った本人までも苦しめたのです。法律制度の製作者が、自分で作った法律制度に苦しめられるのです。政治家は、自分が苦しむことを考えた上で法律制度を作るべきだったのです。政治家が苦しむ法律制度は、国のためにもならない場合があります。善良な政治家が法律で苦しめられる事態は避けるべきであると考えられます。悪い政治家は法律で苦しめられることが許されるのですが、しかし、善良な政治家は温情で助けることも考慮すべきです。悪い政治家であろうが、善良な政治家であろうが、その政治家の質に関係なく、無差別に法律を適用することには問題があります。
秦の国の滅亡は、全体的に考えれば、過酷な法律制度が原因です。過酷な法律制度では、国を発展させることができないのです。法律制度の中には、温情の入っている必要があります。秦の法律制度の中に、温情が入っていれば、秦の善良な臣下は助けられたのかもしれません。善良な臣下の政治が秦の国を発展させるのです。そのため、秦の国の滅亡を、臣下の存在において考えることもできます。秦の国が滅亡した原因は、過酷な法律制度が、善良な臣下までも苦しめたためなのです。秦の始皇帝が気を付けるべきであったことは、過酷な法律制度と、悪い臣下の存在でした。秦の始皇帝が、法律制度と臣下とに対して、十分な反省を行っていれば、秦の国は長く発展していたのです。秦の始皇帝が生きている間に、秦の国は滅亡したのではありません。秦の始皇帝は、秦の国の永続性を考えるべきでした。過酷な法律制度では、一時的な国の繁栄があるのみです。また、法律制度と共に、秦の始皇帝は善良な臣下を大切に考えるべきでした。秦の始皇帝は、制度と人間との、二つの重要な点を深く反省すべきだったのです。悪い制度と、悪い人間とが重なり合う政治であれば、国は必ず滅亡することになります。悪い制度の下でも、善良な人間が政治界に任用されていれば、国の滅亡は避けられるのかもしれません。秦の国の場合は、悪い制度の影響によって、善良な人間が政治界から追放されました。そのため、国の滅亡を避けるには、制度と人間との、両方を善良なものするべきであると考えられます。制度と人間との、どちらか片方が悪く、どちらか片方が良い場合は、それを放置しておくべきではありません。
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