水曜日
東洋の倫理・道徳
蘇老泉の「管仲論」について
水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、蘇老泉の「管仲論」について、です。蘇老泉は、中国の宋の時代に活躍した人物です。
蘇老泉の「管仲論」では、管仲が、自分の後継ぎとなる臣下を王様に残さなかったことを非難しています。「管仲論」の内容は、管仲の批判です。しかし、その「管仲論」には、蘇老泉の、社会への批判の内容も含まれています。蘇老泉は、「管仲論」で管仲を批判しながら、重ねて、社会批判も行っているのです。
蘇老泉の「管仲論」では、管仲が、自分の後継ぎに有能な臣下を選ばなかったことを非難しています。管仲の仕えていた王様は、管仲の後継の臣下として、悪い臣下を選んでしまったのです。そのため、管仲の治めていた国は、乱れてしまったのであると蘇老泉は主張しています。国を乱した原因は、管仲にある、ということです。管仲が、有能な後継ぎの臣下を選んでいたならば、国が乱れることはなかったと、蘇老泉は「管仲論」で主張しています。その「管仲論」では、国を乱した原因は、王様と、管仲の後継の臣下であるとは考えられていません。「管仲論」では、管仲だけが、特に非難の対象となっています。管仲は、優秀な臣下です。管仲が国を治めていた間は、国内には不都合はありませんでした。しかし、管仲の後継の臣下が国を治め始めてから、国内に混乱が生じたのです。蘇老泉は、臣下は賢者でなければならないと主張しています。蘇老泉は、国を治める臣下には、賢臣を求めているのです。それが、蘇老泉の社会批判の主張とも重なり合っています。優秀な政治家が国を治めなければ、国が乱れてしまうのです。
管仲が生きていた時代は、古代の中国社会です。古代の中国社会では、有能な臣下が国を治めなければ、国内に混乱を招いていたのです。そして、蘇老泉の生きていた、中国の宋の時代においても、悪い臣下によって、国内が動揺していたのです。中国では、古代から、宋の時代まで、臣下の存在によって国内情勢が左右されていたのです。しかしそれは、現代においても共通した事柄です。現代においても、政権を担当している政治家によって、国内情勢が左右されます。現代に生きる人々は、古代の社会を未開社会のように思っています。古代の社会は、科学が発達していません。現代社会は、高度な科学が発達した時代です。しかし、高度な科学が発達した現代社会においても、優秀な政治家が求められています。優秀な政治家の存在は、科学の発達した現代においても、大きな価値を持っているのです。優秀な政治家の存在は、科学力の発達とは無関係であるのかもしれません。科学の発達によって、優秀な政治家の不必要な時代が訪れないのです。
現代の人々は、古代の社会の政治を、遅れた政治と考えるものです。しかし、古代の政治も、現代の政治も、人間の指導力によって運営されています。古代の政治と、現代の政治とは、共通しているのです。現代の政治でも、人間の政治家が国内を治めています。科学の力によって、機械的に政治が行われているのではありません。機械が自動的に政治を行うのではありません。国内は、優秀な能力を持った政治家によって治められています。平凡な人間では、政治家になることはできません。現代においても、政治家には優秀な能力が求められています。つまり、古代社会から、現代社会まで、政治は人間の力によって行われているのです。政治を機械任せにすることはできません。機械では政治を行えないのです。国の政治は、優秀な政治家に任せる必要があるわけです。古代社会だけが、悪い政治家によって、国内を乱されていたのではありません。現代社会の場合でも、悪い政治家によって、国内が乱される可能性を考えることができます。
つまり、国内の盛衰が、優秀な一人の政治家によって、左右されてしまう、ということです。管仲という、優秀な一人の政治家によって、国の盛衰が左右されるのです。管仲によって国が発展することもあれば、管仲によって国が不安定になることもあるのです。蘇老泉の「管仲論」では、個人の人間の力を非常に重視しています。「管仲論」は、個人の力が国を動かすと考えています。「管仲論」は、大勢の複数の人間の力よりも、個人の一人の人間の力を強調しています。国が、個人の人間の力によって動かされるのです。蘇老泉は、政治家に対して大きな期待を抱いているのです。政治家は、国を動かす重大な責任を負っています。政治家に気の緩みは許されません。政治家は、自分の担う役割の大きさを自覚するべきなのです。それは、政治家だけの話ではありません。一般人も、個人の人間の力の重さを自覚しなければなりません。個人の人間の力を軽視するべきではありません。それは、管仲の事例を考えれば納得できます。管仲は、一人で国を動かしていました。管仲が国を治めている間は、国が繁栄していました。管仲が優秀な政治を行っていたからです。それは、個人の力です。
現代の時代にあっても、個人の人間の持つ力の価値は失われていません。現代社会の政治家であっても、個人の力量の大きさが重視されます。蘇老泉の「管仲論」は、管仲だけが非難される問題ではありません。「管仲論」は、国内における、政治家の重要性を主張しています。政治家が、国内情勢の盛衰を握っているのです。民衆の人々は、優秀な政治家を望んでいます。蘇老泉は、多くの民衆の中の一人です。蘇老泉は民間人です。民間人が、政治を批判したのです。政治家は、自分の持つ責任を十分承知しなければなりません。一人の人間の力によって、国が動くのです。人間は、社会の中で生きています。社会の中で、人間は多くの人たちと生きています。そのため、人間は、多くの人たちの中で、自分の持つ力の重要性に対して、認識不足に陥ることがあります。社会は、大勢の人たちで構成されています。大勢の人々が社会の中で暮らしているので、個人の人間は、他人任せの態度をとる場合が多くあります。個人の人間では、社会を動かすことができないと考えるのです。国を動かすのは、個人ではなく、大勢の人々であると、一般的には考えられています。一般人は、個人の持つ力を弱く見ています。「管仲論」の場合は、国に対する、個人の影響力を大きく考えています。個人の力を大きく考えるので、「管仲論」では、管仲が国を乱したのであると、管仲個人を強く非難しています。
一般人の多くは、大勢の集団の中で生きています。大勢の集団の中で生きている人間は、自分の行動に対して、強い責任感を持たないことがあります。失敗の原因を他人に任せるような、無責任な態度をとる人物がいます。そのような人間は、集団行動に慣れた人物です。集団行動を行っている間は、責任の所在を他人に考える態度が許されるかもしれません。しかし、それは未熟者の態度です。成熟した人間は、自分の行動に自分で責任をとるべきです。個人の人間が周囲に与える影響力を、深く認識すべきです。個人の力では、社会に対して影響力を持たないと考える人間は、未熟な人間なのです。個人の力が、国を動かす場合もあるのです。個人の力を過小評価するべきではありません。一般の人々は、自分自身の力を少なく見積もっているのです。その姿勢は、責任逃れの態度です。自分の力を弱く考えて、責任逃れを考えているのです。その人生は、気楽な生き方に分類されます。大勢の人々の中で、個人の責任を考えないで生きる人生です。責任逃れの態度を持つ人物が政治家となる場合、国内情勢に混乱を招くことになります。一般人の多くは、社会に対して、自分の影響力を大きく考えないものです。しかし、政治家の場合は、一般人の気分で政治を行ってはなりません。政治家は、一般人のような、社会に対する無責任な態度は許されないのです。政治家には、自分個人の力を過大評価するぐらいの姿勢が必要です。政治家は、自分の力が社会全体に影響を及ぼしていると考えるべきです。
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