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木曜日

東洋の思想




修養の方法について


 木曜日は、東洋の思想の日です。今日の題は、修養の方法について、です。東洋においては、人間の品性の向上のために、修養の必要性を主張します。
 東洋の修養方法は、一種類だけではありません。東洋では、様々な種類の修養方法が考えられています。修養方法は、その提唱者によって異なるものです。提唱者が異なれば、修養方法の主張が異なるのです。修養方法は、その提唱者の世界観や人生観と密接に関わっています。それぞれの提唱者によって、世界観や人生観は違っています。それぞれの人物によって、人間に対する見方も異なります。人間の存在のとらえ方には、考え方に個人差があります。修養方法は、提唱者の人間観に沿って考えられています。人間観が異なれば、修養方法も異なるのです。
 修養では、人間の品性の中の、何かの価値の向上を求めます。そのため、向上させるべき人間性の価値に対して、修養の提唱者がどのような価値観を持っているのかによって、修養方法に異なりがあると考えられるのです。人間の修養においては、人間性に対する価値観が問われるのです。人それぞれによって、人間のどの部分の性質を伸ばすのかに対する考え方が異なります。人それぞれによって、人間性の価値に対する、重視する強調点に差があるのです。人間性の中にも、重視すべき点と、重視すべきではない点とがあります。修養では、人間性の中の重視すべき点を向上させようとします。しかし、人間観には個人差があるため、人間性の重視すべき点に対する考え方には一定した見方がありません。人間には、個人差があります。人間は、人それぞれの人生を歩んでいます。そのため、人それぞれで、自分の人生で追求している価値が異なっていると考えられるのです。全ての人間が、全員同じ価値を追求しているのではありません。人それぞれによって、抱いている価値観が異なるのです。その価値観の異なりは、世界観や人間観の相違となって現れます。人間性に対しても、万人に共通して価値のある性質を考えられません。人それぞれによって、価値ある人間性に対する考え方が異なっています。修養では人間性の価値の向上を求めます。そのため、人間性の価値の中で、どの部分が重要であると考えるのかが問題となります。人間性にも、様々な種類があります。その様々な種類の人間性の中の、どの部分に価値を見出すべきなのでしょうか。
 修養方法の提唱者によって、人間性に対する価値観が異なっています。東洋では、修養方法は大きく分けて二種類あります。まず、道教の修養です。そして、儒教の修養があります。道教では、人間性に対して、その広大さに重き価値を置いています。道教の修養では、人間と自然との万物一体の境地を目指します。それは、道教の修養の提唱者が、堅苦しい人間性を否定するからです。道教の修養の提唱者は、狡猾な人間を否定します。人間社会の中で生活する人間の多くは、知恵を持っています。そして、人間は、知恵を持っているために、ずる賢く生きるものです。道教では、ずる賢く生きる人間の人間性を認めていません。道教では、人間性のずる賢さは価値のないものと考えます。人間は、知恵を持ってずる賢く生きる結果、万物一体の境地を得られないのです。それは、人間の人生としては嘆くべき事態です。道教では、ずる賢く生きる人生よりも、万物一体の境地を得て生きる人生の方が、心豊かに生きられると考えます。万物一体の境地を得た人間は、幸福な人間です。そのため、道教の修養方法は、人間性の広大さを求めるのです。道教は、人間社会の中をずる賢く生きる人生を否定します。それは、狭苦しい人生です。人間は、心を広く持つべきです。心を広く持つ修養が、道教の修養です。道教の修養は、何物にもとらわれない人間の心を目指します。道教の修養の提唱者は、広々とした人間性の価値を重視します。
 そして、儒教の修養の方法は、道教の修養の方法とは異なった面があります。道教の修養は、学問による知恵を身に付ける修養ではありません。学問の知恵を身に付ける人間は、ずる賢さの人間性を備えてしまうのです。学問には、人間社会を狡猾に生きる知恵が詰まっているのです。そのため、道教の修養では、学問を重視しません。学問が、人間性を損なわせる原因となると道教では考えるのです。道教は広々とした心を備えている人間性を大切にします。学問を行うことによって、人間の心が狭くなってしまえば、学問の行いを人間はやめるべきです。学問を行うのであれば、心が広く豊かになる学問を行うべきです。道教では、学問の行いは人間の心を狭くすると考えるので、学問には大きな価値を見出しません。しかし、儒教の修養では、学問の行いを肯定的にとらえています。儒教の修養の提唱者は、幅広い学問を身に付けています。学問は、儒教の修養の中では重視されている科目です。儒教では、博学な人物が尊重されます。博学な人間は、修養が行き届いた人物です。しかし、儒教においても、知識を増やすだけの学問の態度に対しては否定的です。学問を暗記するだけの行為とは考えないのです。儒教において大切にされる学問は、心を養う学問です。学問を行うことによって、人間の心を磨く必要性を儒教は主張しています。
 儒教は、一般的な意味の学問を、外聞の知識であると考えています。人々が通常考える学問を、外から知識を得る行為であると儒教では考えます。儒教では、そのような知識を得るだけの学問では、まだ十分であるとは認めません。一般の人々が考える学問は、儒教においては学問の始まりに過ぎません。儒教では、外聞の知識を、自分の心の中で吟味する必要があると考えます。外からの知識は、人間の内からの知識とする必要があるのです。儒教は、知識を外から得るだけをもって学問の成就とは考えません。儒教の考える学問の成就は、外から得た知識が行動に結び付いた場合です。まず、人間は外から知識を得ます。そして、その知識を人間は心の内部で検討した上で、身に付けるのです。外から得た知識は、心に身に付けなければ意味がありません。外聞の知識を心に身に付けるには、反省をすることです。外から得た知識は、反省によって心に身に付きます。そして次に、身に付けた知識を、行動に移す必要があります。行動ができれば、身に付けた学問が実際に役に立ったと認められます。儒教の修養で考えられている学問は、行動にまで移す必要があります。知識を外から得るだけの学問が否定されることはもちろんです。知識を外から一回聞いただけで満足する学問では十分ではありません。外から得た知識は、心の中で深く吟味するべきです。それは、自主的な心の働きです。学問を行う上では、自主性が重んじられるのです。そして、身に付けた学問を、行動に移すのです。儒教は、行動も学問の中に含めて考えます。実践活動が学問の成就です。そのため、儒教では学問を三段階にとらえていると考えられるのです。儒教の修養は、三段階の学問を大切に考えます。
 つまり、東洋の修養には、儒教であっても道教であっても、共に心の豊かさを重視しているのです。道教では、学問を否定しています。そして、儒教では学問を肯定しています。学問に対する態度には、儒教と道教とでは違いがあります。しかし、儒教も道教も、人間の心の豊かさを大切にしていることに変わりはありません。そして、知識だけを暗記する学問の姿勢に対しては、儒教も道教も否定的です。儒教は学問を肯定しているのですが、しかし、外から得た知識を行動にまで移す学問を本当の学問と考えています。三段階目まで行わなければ、本当の学問ではないのです。道教の修養が批判する学問は、行動に移さない学問であると考えられます。人々の多くは、知識を得ても、行動に移さないことがあります。知識を得ただけで満足する人間を、道教は認めないのです。学問の行いには、自分の外部にある知識を、自分の内部に十分取り入れる必要があります。








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