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水曜日

東洋の倫理・道徳




朱子学の「理」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日は、朱子学の「理」について考えます。
 朱子学では、万物は、「理」が発現したものである、というように考えます。天地は、「理」から生まれたものである、という考えです。つまり、存在している全ての事物には、「理」が宿っているものであるという主張だと思われます。それは、人間の心についても考えられることです。人間の心にも、「理」が働いているということです。そして、人間として大切にしなければならない、道徳の心についても、朱子学は「理」によって解明しようとします。
 朱子学の目的は、儒教の研究であると思われます。朱子学は、儒教を、「理」によって解明しようとするのです。朱子学は、儒教を研究する学派の一つなのです。朱子学は、儒教の正しさを証明するのです。「儒教こそは、人間全体に対して、絶対に正しい教えである」と、朱子学は主張をするのです。「儒教の教えが、人間社会に幸福をもたらす、一番の教えだ」と、朱子学は考えるものなのです。
 朱子学が誕生した社会の背景には、宗教間での対立のようなものがあったと考えられるのです。宗教対立です。「自分たちの説は正しいけれども、しかし他の学派の説は間違っているのだ」ということを、それぞれの学派で主張するのです。朱子学の学派の他にも、学派が数多く存在していたのです。現代においても、学者たちの間では、学説の対立が見受けられるものです。自分の主張が絶対に正しいものであるとの姿勢を崩さないのです。朱子学においても、儒教の絶対的な正しさを証明したいのです。「儒教以外の教えを信じることはやめなさい」ということです。「儒教以外の教えを信じれば、人々が不幸になる」という主張をするのです。間違った教えが人々に広まれば、社会を乱す原因となるのです。そのため、人々が守るべき教えは、正しい教えでなければならないのです。
 世の中の乱れは正さなければなりません。自分の学派の正しい教えを、世の中に広めるのです。しかし、自分の学派とは異なる主張の内容を持つ学派が、数多く存在するのです。自分の学派は正しいけれども、しかし他の学派は間違っているわけです。その際、自分の学派の説は、どれほど正しい説であるのかを明らかにする必要があります。自分の学派と他の学派との意見の共通点や、相違点を整理するのです。そして、学派同士で、論争をするのです。どの学派が一番正しい説であるのかを決めるのです。
 そして、論争の際には、正しさの「理由」や、「理屈」というものが必要となります。理屈をこねるのです。根拠もなく、自分の学派の正しさを主張することはできません。それなりの理由がなければなりません。自分の学派と他の学派とは、どのような部分で異なっているものかを理解して、その上で、自分の学派の正しさを主張するのです。その、主張には、理由がなければならないということです。他の学派は他の学派で、自分の説を正しいものであると考えているのです。朱子学でも、他の学派でも、自分の説は正しいと考えています。それを、お互いが、「相手の説は間違っている」と、主張し合うのです。そして、その論争の場では、理屈の正しさが重要なものとなります。
 朱子学の「理」について考えるにあたっては、そのような、社会の背景に学派同士の対立があったことも考えなければならないのです。儒教の学説の発展の歴史の中で、朱子学の誕生があるのです。儒教の歴史も考えなければならないのです。当時の社会には、儒教の教えだけが存在していたのではないのです。社会に生きる人の全員が、儒教の教えを厚く守っていれば、問題は発生しないということです。しかし、社会の人々が守っていた教えの種類には、多くの種類があったのです。そこで問題が発生するのです。論争が起こるのです。そして、論争を繰り広げるためには、自分の説の正しさの、理屈を考えなければならないのです。社会の人々の全員が儒教を守っていれば、そもそも問題はありませんでした。文句なしです。儒教の正しさの理由とか、自分の学派の正しさの理屈などを考える必要はありません。理屈なしで正しいというわけです。
 しかし、自分の学派とは異なる主張をする学派が存在するのです。そのような学派は、間違っているというわけです。自分の学派が正しいのです。正しさを証明するためには、理屈を考えなければなりません。人々が抱く疑問には、説明ができなければなりません。理由付け、説明付けをするのです。儒教の学説の発展の歴史とは、そのような、儒教に対する理由付け、説明付けの歴史で成り立っているとも考えられるのです。いかに儒教の教説の体系を上手に理屈付けられるのかが、その学派にとっては重要となるのです。
 儒教を整備しようという考えです。大まかな、全体的な儒教は出来上がっているのです。だから、それを今度は、細かな部分まで整備しようと考えるのです。人々が抱く、より細かな疑問にまで対応できるようにするのです。儒教の細部にまで、心を行き届かせるのです。その結果、人々が抱く、どのような疑問にも答えられるようになるのです。
 人々の質問が、学派には数多く寄せられるものなのです。それらの多くの質問に対して、考え続けるのです。人々の疑問に対処できないようでは、儒教は人々からの信頼を失ってしまいます。人々は朱子学よりも、他の学派の教えに従うようになります。そのため、人々が朱子学に抱く疑問を、解決しなければならないのです。社会に生きる人々の全員が、朱子学の正しさを理解できるようになるまで、朱子学者は努めなければなりません。社会の人々の全員が、「朱子学を守れば、人々は幸福になる」と、納得するようになれば、朱子学が社会に受け入れられます。人々が朱子学に抱く、どのような細かな疑問に対しても、答えられるように準備しなければならないのです。瑣末な疑問にも対処できるように、朱子学を仕上げるのです。理由と理屈を考えるということが大切なのです。








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