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木曜日

東洋の思想




先王の尊敬について


 木曜日は、東洋の思想の日です。今日の題は、先王の尊敬について、です。儒教の精神では、先代の王様の事業を尊敬する態度が大きいものです。
 先代の王様は、善玉と悪玉の王様に分けられます。先代の王様であれば、無差別に尊敬するのではありません。先代の王様であっても、悪玉の王様であれば、儒教であっても、全然尊敬する姿勢はありません。儒教では、伝統を大切にする考え方があります。しかし、悪玉の王様の作り出した伝統は大切にしません。むしろ、儒教は先代の悪玉の王様のことを非難します。古いものであれば、何でも尊敬する考え方ではありません。先王を尊敬する態度も、それほど単純なものではありません。
 儒教の精神では、聖人の先王であれば、大いに尊敬すべきであると考えるものです。しかしそれは、「全ての先王を尊敬すべきである」という考え方ではありません。一般的な多くの人たちは、儒教を保守的な教えであると、考えているものです。確かに、儒教には、伝統を守る、保守的な面があります。儒教は、先王の業績を崇拝しています。しかし、儒教は、全ての古いものを大切にすべきであるという教えではありません。それは極端な考え方であり、間違った見方です。儒教に対する、偏見です。古いものであれば、何でも大切にする教えであれば、それは異常な教えであり、常識からかけ離れています。古ければ尊敬されるのであれば、人間にはどのような行為も許されることになります。古人の悪行も許されてしまいます。儒教では、悪行を犯した古人は尊敬されません。
 しかし、儒教では、基本的には古いものを大切に考えます。儒教が古いものを大切に考えるのは、将来を大切に考えるからです。儒教は、将来の世界を大切に考えているわけです。儒教は、将来の世界を大切にするので、過去の世界を大切に考えるのです。つまり、儒教は、歴史に学んでいるのです。確かに、儒教は、歴史を尊びます。しかしそれは、儒教が未来を大切にするからです。そのため、儒教が保守的なだけの教えであるという考え方は、間違っているのです。儒教の精神は、現代人が歴史を学ぶ精神と共通しているのです。儒教を保守的であると考える人は、歴史に学ぶ精神を知らない人です。歴史を学ぶ人の中には、革新的な考え方の人もいます。歴史から未来を考える姿勢が重要です。確かに、儒教は、古人の悪行の歴史的事実を大切にします。しかしそれは、古人の悪行を、教訓として大切にするわけです。儒教は、古人の悪行自体は、決して認めません。古人の悪行は、現代を生きる人間の、戒めとするために大切にします。儒教の精神は、常に現代的なのです。現代の世の中に生きている人々のために、古い時代の歴史を大切に扱うのです。儒教は、現代に生きる人々のための教えなのです。
 時代にも、過去、現在、未来とあります。儒教の場合は、それらの、過去、現在、未来の、全てを大切に考えるわけです。そのため、儒教が過去を大切にしている面だけを見れば、儒教が保守的に見えるのです。しかし、一部分を見ただけで、全体を判断してはなりません。儒教が過去を大切にする態度は、儒教の精神の中の、一部分なのです。儒教は、過去だけではなく、現在と未来も大切に考えるのです。過去だけを大切にする人は、現実逃避的な姿勢があります。そのため、一般の人々は、過去だけを重視する、現実逃避的な人物を拒否するために、儒教も拒否するのです。一般人は、現実逃避の態度を拒否しながら生きているものです。そして、一般人は、儒教の精神を、歴史と伝統だけを重視する、現在の世界に否定的な教えであると思っています。その結果、一般人は儒教から遠ざかるのです。しかし、一般人の人々は、儒教に対する偏見を改めなければなりません。儒教は、現在を肯定的に考える教えです。儒教の精神には、現在と将来を、積極的に変化させようとする態度があります。儒教は、昔の時代の感慨に浸っているだけの教えではありません。つまり、儒教は、現在の状況が悪い場合でも、過去の時代には逃避しないのです。儒教の精神では、現在の状況が悪ければ、改善させることを考えます。儒教には、悪い現在の状況から目を背ける姿勢がありません。儒教が過去の歴史を勉強しているのは、現在の状況に対処するためです。現在の状況から逃避する目的で、儒教は過去の歴史を大切にするのではありません。
 それらのことを理解した上で、先王を尊敬しなければなりません。悪玉の先王に対する場合は、悪玉の先王に関わる、歴史の教訓だけを大切にします。悪玉の先王自体は、決して大切にはしません。尊敬する先王は、善玉の先王のみです。そして、現在の状況に対応しながら、先王を尊敬するべきです。先王に完全に従えば、それが絶対に正解であるとは限らないのです。刻々と移り変わる、時代の変化に対応しながら、先王を考えなければなりません。偉大な先王の教えを、現代に生かす姿勢が必要です。先王を尊敬するのであれば、先王のように生きることを目標にしなければなりません。偉大な先王のように生きることを目標とする態度こそ、先王の尊敬の、正しい態度です。つまり、偉大な先王の姿勢を、現代に生かすことが第一です。先王を正しく尊敬する際に求められる態度は、現在重視の態度です。現在重視の態度がなければ、先王を尊敬する際の、正しい姿ではないのです。そして、現在だけではなく、未来の世界の改善を願う姿勢も求められます。現在と未来から目を背けて、歴史の教訓だけを大切に考えてはなりません。現在に否定的な態度で先王を尊敬する態度は誤っています。つまり、現在の世界から逃避して、過去の時代の先王に、過剰に依存してはならないのです。現在の世界に前向きな気持ちで、先王を尊敬する態度が重要です。現在の世界の改善を考えなければなりません。
 現在の世界を悪くするような、先王への尊敬の態度は間違っています。儒教は、温故知新を考えています。温故知新が大切です。つまり、儒教は伝統を大切にするだけの教えでないのです。伝統から、はみ出すことも儒教は考えます。伝統の枠組みから外れることも必要です。儒教は、守りの姿勢と、攻めの姿勢と、両方の姿勢を持っています。伝統を守っているだけでは、儒教では正しい態度とは認められません。伝統を守ることが絶対の目的と考えてはなりません。現在や将来の世界に生きる人々に対して、不幸の訪れるような伝統は、守るべきではありません。現在の世界に対応するような、伝統尊敬の態度が必要です。悪い伝統であれば、見直すべきなのです。そして、良い伝統であれば、たとえ一般的ではなくとも、積極的に現代に生かすべきです。先王の尊敬も、現代の人々を満足させる態度で行う必要があります。先王を尊敬すれば、それが絶対であると思うべきではありません。
 先王を尊敬する態度は、歴史を大切にする態度です。そしてまた、歴史を大切にする態度は、現在に革新をもたらすことにもつながります。現在に革新をもたらすことを考える人物は、歴史を学んでいるものです。人間は、歴史から学ぶべきです。そして、歴史から学んだことを、現代に生かすのです。歴史の知識があるだけでは、現在の世界の改善につながりません。歴史の知識を豊富に持ちながら、現在の世界を改善しない人間は、歴史への尊敬の態度が足りません。歴史を尊敬する態度で、歴史を学ぶことが重要です。歴史を尊敬する態度があれば、歴史の知識は現代に生かされるのです。なぜなら、歴史の知識を持つ人物が、知識を現代に生かそうと考えるからです。歴史に対する、尊敬の心がなければ、歴史の知識は日常生活に生きません。つまり、先王を尊敬するからこそ、偉大な先王の業績の知識が、実際の役に立つのです。尊敬の心が、知識を生かすのです。尊敬の心が入っていない知識では、役に立たない知識です。尊敬するほどの、熱心さが重要です。そして、熱心さから、知識が生きることになり、現在の世界を改善させることにつながるのです。現在と未来を大切にしながら、過去を学ばなければなりません。








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