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金曜日

西洋の倫理・道徳




正義の基準について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、正義の基準について、です。西洋では、正義に対する議論が歴史的に盛んでした。
 正義の基準に対する考え方には、様々な種類があります。まず、倫理的な利己主義の考え方があります。その主張では、自分の善となることを追求することが正義であると考えます。それは、自分の善が正義であると主張するものです。そしてまた、正義の基準として考えられるものとして、「義務論」の考え方もあります。義務論の主張では、作られた規則や規範を正義であると考えます。義務論は、設定されている規則や道徳法を正義の基準と考えます。そして、正義の基準の考え方として、「神意説」があります。神意説は、神様の意見が正義の基準と考えます。神意説では、神の存在を絶対の正義であると考えます。そして、「功利主義」を正義の基準として考える主張もあります。功利主義では、最大多数の最大幸福を目指すことが正義の基準です。功利主義は、最大多数の最大幸福を実現させることが正義であると考えます。功利主義の考え方は、正義の基準の考え方として、最も代表的なものです。西洋における、正義の基準の考え方は、基本的には功利主義です。しかし、功利主義には問題点を考えられるので、絶対的な正義の基準の考え方としては不適切なのです。そして、功利主義の他の主張の中にも、問題点をそれぞれ考えることができます。そのため、絶対的な正義の基準となる考え方が、現在では存在していないのです。現在においても、正義の基準に対する議論は続いています。正義とは何であるのかが問題です。
 正義の基準に対する考え方には、様々な種類があります。それらの種類の全てに、それぞれ説得力があります。しかしまた、全ての種類の考え方に対して、問題点を考えることもできるのです。まず、倫理的な利己主義を正義の基準と考える主張があります。その主張には、確かに大きな説得力があります。
 倫理的な利己主義の主張では、自分にとっての善を最も大切に考えます。その説では、自分にとっての善が正義でもあると考えるのです。その考え方は、道徳的な利己主義です。不道徳を追求する利己主義でないことは当然です。その利己主義は、正義を達成すると主張します。正義を達成する利己主義なので、倫理的であることは当然のことです。倫理的な利己主義は、善を追求します。善を追求するため、利己主義が許されると考えるのです。倫理的な利己主義は、悪を許しません。倫理的な利己主義は、善を追求して、悪を追求することはありません。その主張の問題点は、他人の善のことです。他人の善を、倫理的な利己主義はどのように考えるのでしょうか。
 利己主義は、自己中心的な考え方です。自己中心的な人間は、他人のことや、社会全体のことを考えないものです。人間は一人だけでは生きることができません。人間は、利己主義に生きるべきではないのです。そのため、利己主義は正義ではないと、一般的には考えられています。利己主義が、最も正義から外れていると世間の人々は考えるものです。しかし、利己主義であっても、倫理的な利己主義の場合は、正義を達成できるのかもしれないのです。利己主義の問題点は、他人の善のことです。倫理的な利己主義では、他人の善のことも考えられています。正義の基準は、自分の善を最大限に促進することです。善を促進させるためには、道徳的でなければなりません。道徳的行為でなければ、善を促進させることはできません。道徳的な行為でなければ、善であるとは認められないのです。善であるからには、道徳的なのです。そのため、倫理的な利己主義が他人の善を尊重することは当然のことであると考えられます。社会全体の正義の基準として、倫理的な利己主義を設定することもできるかもしれません。社会の人々の全員が、個人の最大限の善を追求するのです。社会全体が正義の基準として倫理的な利己主義の規則を設けているので、人々は、他人の善を尊重することは当然のことです。人々が、互いの善を尊重し合っているのです。そのため、社会全体の規則として、倫理的な利己主義を正義の基準として設定することもできるかもしれないのです。自分にとっての最大の善が、正義でもある、ということです。
 また、その倫理的な利己主義は、「利他主義」としても認められるものです。利他主義は、他人の利益のために行動する主義のことです。しかし、利他主義であっても、自分の利益を得るために他人を利益させる行動をとる場合、それは利己主義の態度となります。利己主義の考えで、利他主義の行動をとることが可能なのです。そのため、利己主義は悪であり、利他主義であれば善であるとは単純には考えられないのです。倫理的な利己主義は、利他主義としても通用します。倫理的な利己主義を、利他主義であると考えることもできるのです。そのため、倫理的な利己主義は正義の絶対的基準として考えられるのかもしれません。しかし、倫理的な利己主義は、あくまでも利己主義です。利己主義の場合は、真の利他主義とは異なるものであると考えられます。利己主義の態度で行動する利他主義は、表面的な利他主義の行動です。それは、偽物の利他主義です。偽物の態度をとることは正義ではありません。倫理的な利己主義にも問題点が考えられるのです。問題点がある以上は、正義の基準としては認められません。
 正義の基準として人々に最も広く受け入れられている考え方は、功利主義です。功利主義が目指していることは、最大多数の最大幸福を達成させることです。功利主義の正義の基準は、最大多数の最大幸福を達成させるかどうかです。功利主義の正義の考え方に対しても、問題点を考えることができます。そのため、功利主義の考え方であっても、絶対的な正義の基準としては認められないのです。まず、どのような状況が最大多数の最大幸福の達成された状況であるのかが分かりません。最大多数の最大幸福が達成された状況とは、どのような状況なのでしょうか。最大多数の最大幸福の達成された状況が分からない以上は、最大多数の最大幸福を達成させるための行動をとることができません。行動をとる前に、計画を立てることもできません。社会政策として、最大多数の最大幸福の達成を目指す計画を立てる場合であっても、計画の立案が不可能です。それは、社会において、最大多数の最大幸福の達成された状況が分からないためです。どのような状況を、最大多数の最大幸福の達成された状況と考えるのかが問題です。それは、功利主義の原理だけでは正義の基準としては十分ではないことを表しています。功利主義の規則の他にも、別の正義の基準の考え方が必要なのです。功利主義の規則だけでは、正義を考えられないのです。功利主義の規則に照らし合わせれば、全ての正義の行動をとることができる、とは考えられないのです。正義を達成するためには、個々の状況に見合った正義を考えるべきです。功利主義は、少数者の幸福を守らないような性質を持っています。功利主義の考え方は、最大多数の最大幸福を達成するために、少数者を犠牲にする場合があります。それは、社会的な集団の上においても、私的な集団の上においても考えられることです。社会政策を計画する際においては、功利主義の原理に従えば、少数者の集団を犠牲にする計画を立てるかもしれません。また、私的な集団の中では、功利主義の原理に従って、個人が集団全体の犠牲にされる恐れもあります。少数者が犠牲にされることを、正義と考えるのかどうかが問題です。犠牲者を生み出すことが、果たして正義であるのかが問題です。犠牲者を生み出しながら、正義を達成できたと考えるのでしょうか。つまり、功利主義の考え方は、絶対的な正義の基準としては認めることができないのです。功利主義は、多数決の考え方でもあります。それは、民主主義的な考え方です。少数者よりも、多数者の意見を重視する主義です。しかし、多数決を重視する民主主義にも、問題点があります。








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