土曜日
現代の思想
シェーラーの「人格」について
土曜日は、現代の思想の日です。今日の題は、シェーラーの「人格」について、です。シェーラーは、二十世紀前半に活躍した有名人物です。
シェーラーは、人間の「人格」に対して、独特の意見を主張しています。シェーラーの学説の中では、「人格」の考え方は重要な位置を占めています。人間の存在を考える場合は、「人格」の問題を考えるべきです。シェーラーの考える「人格」は、基本的には「自我」と似た内容を持っています。しかし、シェーラーは「人格」の言葉に「自我」とは異なった意味を考えています。
シェーラーは、全ての人間において「人格」を認めません。人格を持つ人間と、持たない人間とをシェーラーは考えるのです。人間であれば、誰でも人格を持っているとは考えないのです。シェーラーの考える人格は、自我とは異なっています。人間の心と人格とを、同一の意味にシェーラーは考えていません。人格は、理解力と選択能力を持つ人間に認められるものです。未熟な人間に対しては、シェーラーは人格を有することを認めません。人格を持つためには、理解力と選択能力とが必要なのです。判断力のない人間には人格を認めることはできないのです。また、人格とは、人間の性格の意味でもありません。人格は、性格の良し悪しによって決まるものではありません。人格は、心理的な意味ではないのです。人間の感情と人格とは関係ありません。感情の状態によって、人格が左右されることはありません。また、人格は知性でもありません。人格は、選択能力としての知性ではないのです。知性と人格とは区別されます。シェーラーの考える人格は、人間の様々な精神作用を統一するものです。人格は、総合的に考えられた精神です。人格は、人間の、ある一つの心理的作用と結び付くものではありません。人格は、人間の心理的作用の全体と結び付いています。そして、人格は精神作用を遂行するものです。人格は作業を行うのです。人格には動作が見られるのです。人間は様々な精神作用を行うものです。その様々な精神作用に、人格が関わっています。一つの人格が、様々な精神作用に関わっているのです。様々な精神作用の中には、一つの人格が入っているのです。人間は、人格によって精神作用が統一されていると考えられるのです。そして、シェーラーの「人格」の独特な点は、存在の本質を人格が分別する、とシェーラーが考える点です。心理的な「自我」では、存在の本質を分別することがありません。シェーラーの考える人格は、存在の本質を分別する能力があります。人格は、表面的な心理的作用とは異なるのです。人格は、人間の精神の根本的な部分に結び付いています。そして、人格が人間の精神作用を統一しているのです。人格は、人間の精神作用のあらゆる状況に出現します。人間のどのような精神作用であっても、その中に人格があります。人格が精神作用を行うと、シェーラーは考えるのです。そのため、人格を備えた人間であると認めるためには、精神作用を行える能力がなければなりません。人間の精神作用の中に人格があります。人格は精神作用の中に存在します。
そして、シェーラーは人格を個人的なものであると考えます。人格は、人間にとって個別的な、独自のものです。一般的な人格を考えることはできません。人間は、一般的な人格を持って生きているのではありません。人間は、個人的な人格を持つのみです。一般的な人格は現実的な人格ではありません。それぞれの人間が、別個の人格を持っているのです。そして、人格は自立しています。人格は自立的行動が可能です。人格を持つ人間には、選択能力があります。自立した人間に対して、シェーラーは人格を認めるのです。人格を持つためには、個人の自立が必要不可欠です。一般的な人格を持つような人間は、未熟な人間です。個人的な人格を持つ人間が、本物の人格を持った人間です。人間は、個人的な人格を持つことが、成熟した人間としての条件なのです。一般的な人格は、個人の人格ではありません。一般的な人格は、個人の人格とは対立したものです。個人では、一般的人格を持つことはできません。個人の人間は、個人の人格を持ちます。シェーラーは、個人は個人の人格を持つものと考えるのです。シェーラーは、「個人は一般的人格を持つように努めるべきである」とは考えません。個人が持つ人格は、あくまでも個人的な人格です。一般的な人格は、個人の人間が持つような人格ではありません。一般的な人格は個人では備えることができないのです。成熟した人間が持つ、本物の人格は、その人間の個人的な人格です。
人間の存在を考える場合、肉体にも目を向ける必要があります。シェーラーは、人格は肉体と結び付いていると考えます。人格は精神的なものです。しかし、人間は人格の存在だけで生きているのではありません。肉体を持って人間は生きています。そのため、人間の人格と肉体との関係を考えるべきです。シェーラーは、人格で肉体を支配できると考えます。シェーラーは、人間の人格の持つ尊厳性を重視します。肉体が人格を支配するような状態は避けるべきです。肉体と人格の関係においては、肉体が人格よりも優位の立場にあってはなりません。人間の人格は、肉体を支配することで成立するとシェーラーは考えます。肉体が優位の立場にある場合は、人間の人格は本来的なものではありません。人間の人格は、あらゆる事物から自由で自立しているべきです。人格は、肉体からも自由で自立している必要があります。肉体と依存関係にあるような人格を、シェーラーは人格であるとは認めません。人格として認められる条件は、人格が完全な選択能力を備えていることです。完全な選択能力を人格が発揮するためには、人格は肉体の影響下にあってはなりません。完全な人格は、肉体の影響下の外にあるべきです。そして、人格が肉体を支配する関係であれば、人格の成立を認めることができます。人格と肉体との間の関係は、常に人格が優位である必要があります。
シェーラーの考える人格は、世界と結び付いたものです。個人の一つの人格が、一つの世界と結び付いているとシェーラーは考えます。それぞれの個人の人格が、それぞれに対応した世界と結び付いているのです。個人の人格と世界とが、対応し合っているのです。一つの人格に対して、一つの世界の存在があるわけです。一つの共通した世界の中に、数多くの人間の人格が存在するのではありません。人間の人格の数だけ、世界の数があります。それぞれの人格は、それぞれに異なる世界を持っているのです。それは、個人の人格の、世界に対する全体性を表現しています。個人の人格は、世界の中の一部分である、という考え方ではありません。個人の人格は、それぞれの世界に対して、全体的な性質を持っているのです。個人の人格は、それぞれの世界の全体と関わっているのです。
しかし、人間は社会の中に生きているのが現実です。シェーラーは、人格と人格との関係を考えています。シェーラーは、複数の人格の関係を、共同社会において考えます。人間は、共同社会の中で生きています。共同社会の中の人間の人格は、個別人格と総体人格とを考える必要があります。人間の社会的な人格が、総体人格です。人間は、総体人格によって社会に所属して生きています。そのため、現実的な人間は、個別人格と総体人格とを持っているのです。人間は、自分個人の人格だけを尊重して生きるべきではありません。人間は、他人の人格も尊重することが大切です。他人の人格を尊重する場所が社会です。社会の中では、他人の人格の尊重を考えなければなりません。そのため、人格に対しては、個人の人格と共に、社会性のある人格をも合わせて考えるべきなのです。シェーラーは、共同社会の中の人間の人格を考えています。シェーラーは、自分の人格だけでなく、他人の人格も考えています。個人の人間は、共同社会の中で、いかに他人と生きるべきであるのかが問題となります。
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