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火曜日

西洋の思想




ルソーの「自然宗教」について


 火曜日は、西洋の思想の日です。今日は、ルソーの「自然宗教」について考えます。ルソーは、近代の西洋において活躍し、そして、多くの人々に影響を与えた人物です。
 ルソーは、「自然宗教」と名付けた宗教を信仰します。その、ルソーの「自然宗教」は、人間の素朴な感情を大切にします。それは、人間が本来持っている、宗教心を大切にする宗教です。そして、このルソーの「自然宗教」と区別されるのが、理性的な宗教です。理性的な宗教では、神の存在を証明するために、議論を重視します。理性的な宗教は、理性によって神の存在を証明します。しかし、ルソーの場合の宗教は、理性よりも、心情や、感情を大切にします。理性的な宗教は、自然本来の姿に反すると、ルソーは考えるのです。
 ルソーは、自然を重視する態度なのです。ルソーは、人間の自然本来の姿を重視するのです。自然な人間であれば、議論をすることはないと、ルソーは考えます。議論をする人間は、余計な力が入っています。それは、相手と対立的な態度なのです。対立的な人間の態度は、相手を倒すことを考えたり、自分を守るために、身構えたりするものです。そのため、議論をすれば、人間は素直ではなくなります。ルソーは、人間の素直な感情を大切にします。人間が本来持っている、自然な感情さえあれば、宗教を議論する必要はないと、ルソーは考えるのです。つまり、ルソーは、感情的に、神を信仰する態度なのです。ルソーの生きていた時代では、神学論争が盛んでした。神学では、神の存在に対する、様々な議論が展開されています。しかし、ルソーから見れば、神の存在に対して、議論をする分だけ、自然な形の宗教から、離れてしまうのです。議論の多くは、相手と争うことが主要な目的です。しかし、宗教の本来の姿は、相手と争うことが目的ではありません。人間は、本来、論争を交わすことによって神を信仰するのではありません。論争による信仰は、人間の自然な宗教の在り方から離れたものです。人間は本来、自然な宗教心を持っています。そのような宗教心が発揮された、自然な形の宗教を、ルソーは信仰します。
 ルソーの信仰する「自然宗教」には、議論の必要がありません。神の存在を証明するための、論争の必要がないのです。神の存在の根拠は、自分の心に問いかければ、誰もが納得できるのです。論争のために、他人を気にする必要はありません。身構えながら信仰する宗教は、不自然です。感情に基づいた宗教が自然の姿であると、ルソーは考えるのです。理性的な宗教は、他人に、強制的に神を信じさせる姿勢があります。しかし、人間の本来の、自然な形の宗教は、人間が自発的に神を信仰するものです。「自然宗教」の信仰には、理由を探す必要がないのです。理性的な考えの根拠によって、信仰するのではありません。感情では神を信じる気持ちがなく、そして、理性の上だけで神を信じる態度では、本来の宗教の姿ではないと、ルソーは考えるのです。宗教は、計画的に信じるものではありません。宗教の本来の信仰は、計算の上で、「神を信じた方が、自分にとって有利であるから、神を信じる」という、打算的なものではありません。宗教は、不自然に、論争した結果信じるものではないと、ルソーは考えるのです。神の存在の証明は、疑うことなく神を信じている、自分の感情さえあれば、証明されていると、ルソーは主張します。ルソーの「自然宗教」は、議論を避けるのです。
 つまり、ルソーの「自然宗教」は、理性的な態度の宗教ではないのです。ルソーの時代の教会は、神学の教説の体系を形成していました。そしてまた、世間の理性的な人々の中には、神を信仰しない人物も見受けられたものです。教会の神学は理性的であり、そして、世間の理性的な人々は、宗教に批判的だったのです。そのような理性的な時代に対して、神を信じるルソーには、反発心がありました。神学を重視する、教会の宗教は、不自然な宗教です。理性によって神を批判する人間は、自然本来の姿の人間ではありません。つまり、宗教を自然な姿から遠ざけたものは、人間の理性であると、ルソーは考えるのです。ルソーは、人間には理性は必要ない、と考えているのではありません。ルソーの著作の、社会制度に対する考え方は、非常に理性的な内容です。ルソーは、人間の理性的能力の必要性は認めているのです。しかし、ルソーの「自然宗教」の信仰には、理性は必要ありません。
 ルソーは、理性が人間の自然な宗教心を妨害すると、考えるのです。宗教は、議論で信仰するものではないと考えるのです。議論をする人間の態度は、不自然なのです。宗教は、議論で決められるものではない、ということです。宗教は、人間の自然な感情で信じるものです。ルソーの時代の宗教は、自然本来の宗教から外れた、理性的な宗教でした。そのため、人々に、形式的な信仰をもたらしたのです。ルソーは、形式的な信仰を許しません。理性主義の宗教は、形式的な信仰に陥るものです。中身のない、形だけの信仰です。そのような形だけの宗教は、本来の姿の宗教ではないと考えられます。つまり、ルソーは、社会制度の発達に、否定的な態度をとるのです。社会組織の発達に伴って、宗教の組織も、社会の中で発達しました。宗教が、社会制度の中に、取り入れられているのです。そのため、宗教は、本来の姿を失ってしまったと、ルソーは考えるのです。
 ルソーは、社会の進歩の、弊害を主張するわけです。社会の進歩は、人間に、プラスの面と、マイナスの面を与えたのです。世間の人々は、社会の進歩の、プラスの面だけに目を奪われています。しかし、社会の進歩に伴って、人間に対してマイナスの成果をもたらす面にも、人々は目を向けるべきなのです。社会が進歩すれば、人間は便利で快適な生活を営むことができます。社会の進歩に伴った恩恵を、人間は得ることができます。しかし、社会の進歩によって、人間は、自然の姿から離れるのです。自然の姿から人間が離れれば、人間は、精神的に貧しくなるのです。自然の状態で生きていた人間は、豊かな宗教心を持っていたのです。ルソーにとっては、自然状態に生きる人間の、豊かな宗教心が、理想なのです。ルソーは、過去を理想とするのです。
 つまり、ルソーは、社会の進歩の中の、マイナスの面に目を向けるのです。ルソーにとっては、過去の、自然状態の宗教心を取り戻すことが願いでした。社会制度の発達によって、人間の宗教心が、貧相になったのです。宗教にとって最も重要なものは、人間の感情であるとルソーは考えます。理性は、宗教に対して、細かい部分を問題にします。細かい部分を問題にすることが、宗教に進歩をもたらすと、考えてはなりません。宗教の細かい部分を問題にする態度は、本来の宗教の信仰心から、離れた態度なのです。ルソーは、時代と共に小さくなる人々の宗教心を、大きくしようと考えるのです。人々の宗教心が、時代と共に豊かなものになるのであれば、問題はありません。しかし、社会の進歩と、時代の経過に伴って、人々の宗教心が、薄れているのです。そのような時代を、ルソーは嘆き悲しむのです。ルソーが問題と考えていたものは、理性です。まず、教会が理性を重視した結果、宗教行為が形式的となりました。そして、世間の人々が理性的な態度となった結果、人々は神を信じないようになりました。そのため、ルソーは、理性的な宗教を批判するのです。
 ルソーの「自然宗教」は、ルソー主義の宗教です。ルソー主義の宗教は、心情を重視します。その宗教は、心情によって神を信じます。感情を大きく膨らませて、自分の気持ちで神を信じるのです。そして、議論によって、神に対する否定的な意見が考えられたとしても、大きな問題とはなりません。自分の信仰の感情を害する意見に対しては、深く考えないのです。








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