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木曜日

東洋の思想




理想の人間について


 木曜日は、東洋の思想の日です。今日の題は、理想の人間について、です。東洋の思想では、理想的人間とはどのようなものであるか考えられています。
 東洋における理想的人間には、ただ一つの型の人間だけが考えられているのではありません。理想的人間の型にも、いくつかの種類があります。東洋では、一つの型だけに人間を押し込めるような考えを持っていません。東洋では、それぞれの人間の趣向によって、目標とするべき理想的人間にも、いくつかの種類が用意されています。まず、道教の教説では、神人となることが理想です。道教は、人間社会を否定する生き方です。道教では、人間の生きる環境としては、人間社会を狭い環境であると考えます。道教では、広大な環境の中で生きる人生を推奨します。道教の理想的人間は、人間社会を超越した生き方をする人物です。そして、自然本来の人間性を持つ人物が理想であると道教では考えます。自然本来の生き方をする人間は、万物一体の境地を得ている人物であり、神人です。道教では、自然と一体となって生きる神人を、理想的な人間であると考えます。そして、東洋では、道教だけでなく、儒教においても理想的人物が考えられています。儒教で考えられている理想的人物の内容は、道教とは異なる点があります。
 儒教では、聖人を理想的人間として考えています。聖人は、儒教においては究極の理想的人物です。儒教では、「聖人には不可能はない」と考えられています。人間離れした力を持っている人間が聖人です。聖人の問題点は、人間離れした部分にあります。儒教にも、儒教の信者がいます。その儒教の信者であっても、将来、聖人になれる保障はありません。人間が聖人の境地に至ることは、実現困難です。儒教の教えでも、「必ず人間は聖人になるべきである」とは考えられていません。儒教の考え方は、現実的です。現実的な考え方をする儒教では、聖人を、現実離れした人間であるかのように考えています。儒教では、理想的人間として聖人を考えているのですが、しかし、聖人を現実的な人間としては考えていないのです。聖人は、あくまでも理想的人間であって、現実的な人間ではないのです。確かに、儒教では聖人を目標にして修養を積んでいます。儒教の理想的人間は聖人です。そして、修養を積めば、どのような人間も聖人になることができると儒教では教えます。しかし、儒教では、人間が実際に聖人になることに対して、否定的な態度をとっているのです。儒教の創始者に当たる人物であっても、自分が聖人であることを否定しています。儒教の創始者自身が、自分のことを聖人であるとは明言していないのです。儒教の創始者であっても、聖人の境地に至ることが困難なのです。そのため、儒教の考える理想的人間が、聖人だけであった場合、儒教の信者が激減する事態を考えることができます。聖人になることが、実現困難なことなので、儒教の信者が教説を守ることをやめてしまうのです。聖人になることは、実現不可能なことではないかと、儒教の信者が疑うのです。実現不可能なことを目指すような人間の数は少ないものです。
 しかし、儒教で考えられている理想的人間は、聖人だけではありません。聖人の場合は、実現困難な理想的人間です。儒教では、実現可能な理想的人間として、「君子」が考えられています。君子の場合は、現実的に達成することの可能な人物であると考えられます。君子は、理想的人物でありながら、現実的な人間でもあるのです。君子であれば、人間は修養を積むことにより、実際に君子の人間となることができるのです。そのため、儒教の信者は、聖人を目指す前に、まず君子を目指すべきです。確かに、儒教で考えられている、究極的な理想的人間は聖人です。しかし、儒教の創始者でさえ、現実的には聖人になることが難しいのです。儒教の信者にとっては、儒教の創始者の境地に至ることも、現実的には不可能な話なのです。儒教の創始者と、儒教の信者とでは、人間性に天と地ほどの開きがあります。その創始者であっても、自分が聖人であることに対しては否定的なのです。そのため、儒教の信者であれば、理想的人間として、君子を考えるのです。儒教は現実第一主義の態度をとっている部分もあるので、理想的人間に対しても、現実主義の態度をとるのです。儒教では、現実に達成可能な人間を、理想的人間として考えるのです。現実に達成可能な人間が君子です。
 君子は、現実の世界で活躍していることが、儒教の教説の中で認められています。儒教の教説の中で、「あの人物は君子だ」という言葉があります。世の中に、君子が実際に生きていたのです。聖人の場合は、その存在が伝説的に語られているに過ぎません。君子は実際の世の中で活躍している人間にも認めることができます。修養を積み重ねることにより、人間は現実的に君子になることが可能です。君子の条件としては、信、義、礼、智、信の徳目を備えている必要があります。それらの徳目を備えることは人間には可能です。人間は、修養を積むことにより、信、義、礼、智、信の徳目を備えることができます。人間性が偏向している場合には、君子としては認められません。君子は円満な人格を備えている人物です。君子は、自分の人間性に欠けている部分があることを許しておきません。君子は、円満で完全な人間性を目指しています。君子は偏屈な人物ではありません。君子の人間性は総合的に優れています。君子は、自分の人間性の一部分が優れて突出していれば、その他の部分は欠点があっても許されるとは考えません。君子は、一点豪華主義ではありません。一点豪華主義の人間性は君子の人格ではありません。人間性に欠点が多ければ、その欠点を改善しなければなりません。君子は、人間精神を構成する、知、情、意の全てにおいて凡人以上である必要があります。
 君子は、人間精神における、知、情、意の三要素を円満豊富に備えています。「知」の面は、君子の学業熱心な態度において表れています。君子は、日々、学問を怠ることがありません。君子は、物事を学び取る意欲を常に持ち続けています。君子の知恵は、暗記力を重視するものではありません。君子の知恵は、人生の向上と結び付いた知恵です。そして、君子は主体的に物事を学びます。君子は、他人から命令されて勉強するのではありません。そのような君子は、知能が高い人物であると考えられます。そして、君子は「情」の面においても優れています。君子は、同情心を厚く持っています。君子は、他人の感情を理解できるのです。人間は、感情と感情で結び付くことができるのです。他人の感情を理解するためには、自分も感情を豊かに持っていなければなりません。自分の感情が豊かでない人物は、他人の感情を理解することができません。他人の感情に同感しようにも、自分にその感情がなければ、同感のしようがありません。君子は、情操が豊かであるので、他人の感情を理解することができます。君子は、同情ができるのです。同情ができない人物は、それだけ情操が貧しいのです。君子は、感情で他人を理解することができるのです。人間の持つ感情には、貧富の差がありません。そのため、君子であれば、金持ちの人物であっても、貧乏人の感情を理解できるのです。感情と感情で、貧富の差を越えて人間同士で共感をすることができるのです。そして、君子の「意」の優れた部分は、君子が義理を大切にする態度に表れています。君子は、強い意志を持っているので、義理で行動することができるのです。君子は義を重んじます。そのため、君子は感情に流された行動をとらないのです。君子は感情的な行動を慎みます。君子の感情は豊かであるのですが、しかし、君子は感情だけで行動することを避けるのです。義を軽視して、自分の感情に流された行動をとるような人間は君子ではありません。感情に流されずに行動する人間は、冷酷な人間であると評価される場合もあります。しかし、冷酷な人間と君子とは異なります。








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