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水曜日

東洋の倫理・道徳




陸象山の「心即理」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日は、陸象山の「心即理」について考えます。陸象山は、朱子と異なる説を主張しながら、朱子と交友関係にあった人物です。
 陸象山の「心即理」の説は、唯心論の主張です。陸象山は、唯心論者なのです。一般人は、物事を対立的に考えるものです。一般人は、主観と客観とを、分別する態度なのです。しかし、陸象山の「心即理」の説では、主観と客観との対立を解消しています。つまり、唯心論であるので、主観の中に、客観も収めてしまう考えなのです。陸象山は、唯心の一元論を主張するのです。
 それは、精神と物質との問題でもあります。人間の内部と外部とを、分別することに関する問題です。宇宙や世界と、自分の心とは、どのような関係にあるのか、ということを考えるのです。自分と世界とは、対立するのかどうか、という点が重要です。自分と世界とが、対立している、と考えるのであれば、二元論の主張です。自分と世界とは、対立していない、と考えるのであれば、一元論の主張です。一元論の主張は、万物一体の境地を体得しているわけです。主客合一の境地に目覚めたのです。一般人では、主客合一の境地を体得することは難しいものです。一般人の多くは、二元論の説で生活しています。一元論の説で生活する人物は、主客合一の境地を体得した人物です。万物一体の境地を体得するには、長い期間、修行を積む必要があるのかもしれません。しかし、唯心論の説を、頭だけで理解することは、時間のかからないことかもしれません。万物一体の境地は、言葉だけでは、完全には理解できないことです。言葉だけでは、主客合一の境地を体得することはできません。心の底から万物一体の境地を理解するためには、自分の心を入れ替える必要があります。自分の心境に、変化が現れなければなりません。しかし、一般人の人であったとしても、分かる人には分かるのかもしれません。一元論の、理屈だけであれば、一般人の人にも理解できるものです。一元論の、説明であれば、理解できるわけです。
 陸象山の一元論は、世界を、心であると考えるものです。自分の心が、世界を作り出していると考えます。そして、陸象山は、心と理とを、分けない立場なのです。陸象山の使う、「理」の言葉は、客観的な意味を持つ、道理のことです。つまり、陸象山の時代の、多くの人々は、「理」を、人間から離れた、客観的な真理のようなものと考えていたのです。「理」は、人間の心から、離れて存在する、客観的な真理であると、当時の多くの人々は考えていたのです。しかし、陸象山は、心が「理」であると考えるのです。客観的な真理というものも、自分の心が作り出したものであると、陸象山は考えるのです。つまり、「客観的な真理」とは、自分の心そのものなのです。心と理とは、分けられないのです。
 陸象山は、自分の心の外には、何もないと考えるのです。世界の中に存在するものは、自分の心だけです。世界全体が、自分の心なのです。そしてまた、世界は真理です。その真理が、心というわけです。陸象山の考える真理とは、世界であり、また、心なのです。陸象山の世界とは、宇宙全体のことです。唯心論であるため、人間の心が宇宙全体です。そして、宇宙全体が真理であると、陸象山は考えます。つまり、陸象山の主張では、心と、真理と、宇宙全体とが、つながっているのです。心は、真理でもあり、また、世界でもあるのです。心を離れては、真理も世界も存在しないと、陸象山は考えるのです。
 人間の心の中には、真理があると考えられます。そしてまた、世界の中にも、真理があると考えられます。それらの、心の中にある真理と、世界の中にある真理とは、どちらも、同一であると、陸象山は考えるのです。陸象山は、物事を、徹底的に追求して考えたのです。その結果、陸象山は、究極的には、物事は一つであると、考えるに到るのです。陸象山は、心を発見するわけです。真理を追求する、自分の心こそが、真理であると、発見するのです。真理とは、自分の心であったと、陸象山は発見したのです。つまり、「心即理」です。そしてまた、自分の心の外部に存在すると思われる、世界も、自分の心の中にのみ存在するものであると、陸象山は考えるのです。自分の心を離れては、世界は存在しないのです。つまり、「心即宇宙」なのです。自分の心の中に、真理と世界とが存在するのです。陸象山は、心と、真理と、世界とを、一つであると、考えるのです。陸象山は、主観と客観とを分けません。一般の人が考える、主観と客観との対立の状態は、陸象山の主張では、同じ同一物の、異なった表現なのです。主観と客観とは、同一物であると、陸象山は主張するのです。
 陸象山は、心と、真理と、世界とを、同一であると考えます。一般的に考えれば、「心」は主観的なものです。そして、「世界」は客観的なものです。しかし、「真理」の場合は、性格が異なります。そこに、陸象山は目をつけたのです。「真理」の場合は、「心」と「世界」の場合とは違い、主観的でもあり、また、客観的でもあると、考えられるわけです。真理は、主観的なものであるとも、客観的なものであるとも考えられます。そしてまた、真理は一つであると考えられます。しかし、真理は一つであるのにも関わらず、真理は主観的でもあり、客観的でもあると、考えられるのです。その部分に気が付けば、主体と客体との対立は解消できるのです。
 主体と客体とが、対立している状態であれば、真理に到達できないのです。真理は一つなのです。対立の状態では、二つの真理が争っている状態です。二つある真理は、偽物の真理です。つまり、主体の真理と、客体の真理とは、一つなのです。主体と客体との真理が、同じである真理こそが、本物の真理です。そして、主体と客体との真理が同一であるのならば、主体と客体とは、同一なのです。主体と客体とが、同一である姿こそ、真実の姿なのです。主体と客体とが合一しなければ、真実ではありません。
 つまり、陸象山の「心即理」の説は、真理は一つである、ということを考えれば、当然の主張なのです。主観的真理と、客観的真理とが、別々の内容を持つはずはありません。もしも心の中に真理が存在するのであれば、その真理は、心の外の、世界の真理とも、同一の真理であると考えられます。心と世界とは、真理でつながっているのです。主客合一です。客観的な真理とは、主観的な真理でもあるのです。つまり、心の中の真理は、普遍的な真理でもある、ということです。心の中の真理は、間違っていないのです。主客を合一させることは、可能なことなのです。自分と他人、そして、自分と世界全体との、矛盾対立を解消させることは、不可能ではありません。
 一般の人々は、主観的な真理と、客観的な真理とを、対立させて考えるものです。しかし、そのような境地では、まだ修行が足らないのです。自分が主客合一の境地に至っていない証拠です。まず、真理は一つである、ということを、理解しなければなりません。そして、その真理は、心なのです。人間は、心で主客合一の境地を体得するのです。そのため、心を磨かなければなりません。主体と客体とは、真理によってつながっているので、心を、真理によって磨くのです。人間は、心を真理で磨き続ければ、世界の真理と合一することができるのです。陸象山の説では、自分の心の外に、真理を見出さないものです。つまり、自分の心の真理を、信頼することです。自分の心が正しいと感じる真理を、信頼するのです。深く自分の心に問いかけた結果、「これは真理に間違いない」と感じたのであれば、それは客観的にも正しいと、考えられるのです。








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