水曜日
東洋の倫理・道徳
陸賈の政治説について
水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、陸賈(りくか)の政治説について、です。陸賈は、中国の漢の高祖に任用された有名人物です。
陸賈の政治説は、儒教的な要素と、道教的な要素とがあります。陸賈の政治説の儒教的な部分は、人間の仁義を大切にする部分です。そして、陸賈の政治説の道教的な部分は、自然主義を大切にする部分です。儒教の政治では、人間の文化制度を大切に考えます。道教の政治では、人間の文化制度を否定して、自然主義の生活を大切にします。陸賈の政治説は、それらの、儒教と道教の、両方の考え方を取り入れています。陸賈の政治説は、基本的には儒教側の政治説をとっています。道教の政治説は、理想として考えられています。
まず、陸賈の政治説の基本は、儒教の政治です。それは、現実的な政治です。現実の社会に対しては、儒教の政治を行うことを考えます。しかし、陸賈の政治説は、儒教の政治説に終わりません。陸賈は、儒教の政治を最高の理想とは考えないのです。儒教の政治は、最高の理想社会に到達するまでの、発展途上における政治です。儒教の政治を行っている段階では、理想の状態ではありません。理想の政治の形態として、陸賈は道教の政治を考えます。陸賈の政治説の理想は、道教の政治です。しかし、道教の政治は、現実離れした考え方があります。道教の政治は、理想だけを語る部分があります。道教の態度には、現実から遊離している態度が見られます。人間は、現実世界に対応しなければなりません。つまり、陸賈は、儒教と道教の政治説を、それぞれ、現実と理想の考え方であるとして受け入れているのです。現実世界には、儒教の政治を行うべきです。しかし、理想は道教の政治です。
陸賈は、人間の社会制度を大切に考えながら、自然主義の生活も大切にします。陸賈は、人間の社会制度に対して、認めるべき部分と、認められない部分とを考えます。人間の社会制度にも、肯定的な面と、否定的な面とが考えられるのです。社会制度は、順調に機能すれば、人々の幸福な生活を実現します。しかしまた、社会制度から、様々な弊害も発生します。厳しい社会制度は、人々を苦しめます。社会制度には、刑罰があります。刑罰は、人間が作った制度です。自然状態の世界には、厳しい法律や、刑罰がありません。刑罰を受ける人間は、いないことが理想です。誰も、刑罰を受けなければ、それに越したことはありません。理想としては、刑罰制度がないことです。陸賈の理想の政治では、刑罰制度を設けずに、人々の生活を幸福へ導くことです。陸賈は、刑罰制度を否定しているのです。刑罰制度は、人々を苦しめることが多いのです。できれば、刑罰制度で苦しめられる人間は、一人も出ないことが望ましいものです。理想の社会は、刑罰なしの社会です。つまり、理想の社会は、善人の多い社会です。善人が多ければ、刑罰制度は必要ありません。善人が多い社会であれば、刑罰制度を撤廃できるのです。
理想の社会では、刑罰制度が撤廃できます。陸賈も、刑罰制度を撤廃できる社会を理想と考えています。しかし、理想の社会だけを考えていれば、現実社会に対応することができません。そこで、陸賈は、儒教の政治によって、現実社会に対応することを考えます。道教の政治は、現実的ではありません。道教の社会は、理想の上で考えられる社会です。その理想の社会は、確かに、追求すべき社会です。そのため、陸賈は、儒教の政治を行いながら、道教の政治を追求するわけです。儒教の政治は、次善の政治です。しかし、社会の現実を考えれば、儒教の政治説を、陸賈は重視します。儒教の政治は、法治主義と、徳治主義とを混合させた政治です。法治主義は、刑罰によって人々を治めます。徳治主義は、仁義によって人々を治めます。徳治主義の政治では、王様の仁義の心に、人々が従うのです。
道教の政治では、法治主義を一切考えません。道教の政治は、徳治主義のみの政治です。道教の政治は、社会制度のない状態で人々を幸福にする政治です。道教の政治は、人間同士の信頼の心のみで成り立つ政治です。道教の理想の社会は、人間同士が完全に信じ合っている社会です。完全に、人間同士が信頼感で通じ合っている世界です。制度がなくとも、信用だけで成立する社会です。儒教の場合も、信用を大切に考えます。儒教も、刑罰制度には否定的な態度を持っています。人間同士に、完全な信頼があれば、刑罰制度は必要ありません。徳治主義は、人間同士の信頼の心を大切にする、仁義の政治です。陸賈は、仁義の政治を大切に考えます。陸賈は、儒教主義と、道教主義の政治説を持っているのです。それは、陸賈が、仁義を大切に考えていた、ということです。陸賈は、儒教の徳目を大切にする姿勢を持っていたのです。陸賈の政治説は、徳治主義を重視します。
社会を治めるために、法律の数を増やすことを考える政治家も大勢います。陸賈は、法律の数を増やすことに対しては、反対の姿勢です。現代社会の政治家たちは、法律の整備さえ行えば、社会は安泰であると考えがちです。しかしそれは、社会を治めるために、制度に頼る考え方です。その態度は、人間の心を信頼するよりも、制度を信頼する態度です。人間の心よりも、法律を重視しているのです。つまり、その態度は、人々を、犯罪者扱いに考える態度なのです。その態度は、最初から、人々が犯罪行為を働くであろうことを、想定しているのです。なぜ、人々が、犯罪行為を行うものと考えるのでしょうか。それは、人々を信用していないからです。人々を信用していないから、犯罪者が出ることを予想するわけです。法律の整備を重視する人物は、人間を信用する心に欠けています。人間は、不信感から、法律を整備することを考えます。将来を、悪い方へ考えるのです。法律の製作者は、「犯罪者が出るだろう」と考えています。人間同士に信頼感さえあれば、法律の整備は必要ありません。人間に対する信用があれば、犯罪者を想定することはありません。
つまり、昔の古い時代の社会にも、良い部分があったのです。それは、法律の整備が未発達な時代の社会です。法律が整備されていない社会は、現在の視点から考えれば、遅れた未開社会のように思えます。しかし、法律が整備されていなくとも、人間同士が信頼し合っていた社会であれば、何ら問題はないのです。つまり、村の中には、悪さをする人間がいない社会です。犯罪者が出ないので、法律で取り締まる必要がないのです。地域社会が安全だったのです。法律を作らなくとも、地域の人々で、防犯を呼びかければ、犯罪が起こらないのです。その社会は、人々の間に、不信感のない社会です。人々が信頼し合っていたので、将来、犯罪が起こることを想定しないのです。犯罪者がいないので、将来の犯罪を予測しないのです。地域の人々の全員が善人です。そのような社会では、法律の整備の必要がありません。法律の整備の未発達な社会でも、人々は平和に生活することができるわけです。法律の整備の発達は、人間にとって、不幸なことであるのかもしれません。法律は、人間の不信感を基にして生じたものと考えられます。
つまり、理想の政治家として、陸賈のような人間を考えることもできるのです。陸賈は、人間の心を大切にします。そして、陸賈は、人間の心を信頼する態度を基にして政治を考えます。それは、法律の数を減らすことを考える政治です。時代が進むと共に、法律の数を減らそうとする政治です。理想は、全ての法律を撤廃させることです。国の全員の人々に、仁義の心が完全に備わっている状態であれば、法律を撤廃させることが可能です。仁義の心を備えるためには、修身が必要です。そのため、陸賈は儒教の教えを大切に考えます。法律制度を撤廃させるためにも、儒教の修身が必要なのです。修身の教育がなければ、理想の社会を実現できないと、陸賈は考えるのです。修身によって、国民の全員に仁義の心が完全に備わった時、法律制度の必要ない社会が到来します。
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