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土曜日

現代の思想




ロラン・バルトの文学研究について


 土曜日は、現代の思想の日です。今日の題は、ロラン・バルトの文学研究について、です。ロラン・バルトは、現代において、構造主義者であると見なされた人物です。
 ロラン・バルトは、文学を研究することによって思索をします。文学は、人間の独自の文化なのです。人間という存在を理解するためには、文学研究を行うことが有効です。文学によって、人間を知るのです。人間以外の動物は、文字を使用しません。文字を使用する動物は、万物の霊長である、人間だけです。人間は、文字を使用することができるのです。賢い動物であると考えられる、猿や犬であっても、文字は使用していません。さらに、人間の文字の使用の複雑さは、文学となって表れているのです。動物の中には、文字の機能と類似した、目印を使用する動物がいます。動物が目印を使用する行為を、人間の文字使用の行為と、同類の行為であると、考えることもできるのかもしれません。動物も、目印を上手に認識するものです。しかし、人間の文字の使用の複雑さは、他の動物とは比較になりません。人間の独自の文化として、高度に文字を組み合わせる、文学があるわけです。人間の文学の、文字使用の高度さを真似することは、他の動物には絶対に不可能なことです。つまり、文学研究をすることは、人間存在の研究をすることでもあると、考えられるのです。文学の中に、人間を見つけるのです。
 では、どのように、文学を研究するのでしょうか。文学研究の、方法を考える必要があります。ロラン・バルトの場合、文学研究の方法として、言語学と、記号学を、主に利用します。文学研究に、言語学と記号学を利用する、ロラン・バルトの態度は、人間の本質に迫ろうとする態度であると、考えられます。文学研究を、個人的な思い込みで行ってはなりません。個人的な感想を述べる態度での文学研究には、信頼性がありません。人それぞれに、文学論は持っているものです。その文学論が、個人の感想を述べる内容であれば、特に重要な文学論ではありません。文学研究を行う場合にも、普遍性のある内容でなければ、学界からは相手にされません。学界が相手にする文学研究は、学問的な態度のある文学研究です。そのため、何らかの学問的な視点から、文学研究を行うことが望ましい研究態度です。例えば、心理学的な視点からの研究であるとか、社会学的な視点からの研究であるとか、学問的な態度です。そのような、学問的な態度のある研究であれば、学界や、多くの人々から信頼される研究となります。ロラン・バルトの場合は、言語学と、記号学の視点から、文学研究を行うのです。
 文学とは、小説や、物語のことを主に指しています。そして、小説の場合は、その小説の作者の、個人的な心情が書かれているものです。つまり、小説を読むだけでは、人間存在の普遍的な本質を考えられないのです。小説を読めば、個性的な人間存在の本質であれば、理解できるのかもしれません。しかし、小説を読むだけでは、一般的な人間存在の本質は理解できません。個性的な小説は、確かに魅力的なものです。個性的な人間存在は、尊重しなければなりません。しかし、小説からは、個性ある人間を考えることはできたとしても、一般的な人間を考えることができないのです。個性ある小説から、どのようにして、一般的な人間存在を考えるのかが問題です。個性的な人間の性質だけを見て、それを人間一般の性質であると考えてはなりません。そのために、ロラン・バルトは、文学研究の手段の一つとして、言語学と、記号学を利用するのです。言語学と、記号学は、一般的な人間存在の本質と、直接に結び付いています。言語学と、記号学の学説は、どのような人間存在にも、普遍的に当てはまるのです。
 つまり、言語学と、記号学とは、人間の本質と深く結び付いていると考えられるのです。そのような学問を、文学研究の手段として利用すれば、人間全体の本質に迫る文学研究ができます。人間全体の本質とは、人間を他の動物から区別する、人間に特有の本質です。文学研究から、「人間とは何か」を考えるのです。文学作品の一つ一つを読むだけでは、「人間とは何か」を考えられないものです。文学作品の一つ一つは、それぞれ、作者が独自に主張をしたものです。ロラン・バルトは、そのような、様々な人間の文学活動を、一つにまとめて考えるのです。人間の文学活動全体を、ロラン・バルトは問題にするのです。人間の、文学の営みを、全体的に、そして根本的に、ロラン・バルトは考えるのです。つまり、ロラン・バルトの文学研究は、人間研究でもあるのです。ロラン・バルトは、個性的な、ある特定の性質を持つ人間を、文学研究から考えるのではなくて、人間全体に当てはまる性質を考えるのです。ロラン・バルトにとっては、特別に個性的な人物の性質が問題なのではありません。ロラン・バルトにとっては、人間の全体に当てはまる、人間の性質が問題なのです。ロラン・バルトには、大きな視点があるのです。そして、大きな視点から、ロラン・バルトは文学研究を行うのです。人間の文学活動の全体を研究するわけです。
 そのような、全体的な文学研究が、言語学と記号学とを利用することによって、可能となるのです。人間存在に特有な、言語と記号の問題を、ロラン・バルトは考えるのです。人間は、高度な記号使用能力があります。言語も記号も、似たような性質があります。そして、言語と記号は、人間の本質にも深く結び付いています。人間の文学活動も、人間の本質と深く結び付いた、言語と記号を使用する能力から考えることができます。人間の文学活動を支えているものは、人間の、言語と記号を使用する能力なのです。つまり、人間の文学の文化の背景には、人間の、言語と記号を使用する能力があるのです。そして、言語と記号の問題を解決することによって、文学と人間存在との関係が理解できるのです。文学には、文字が必要なのです。文字は、言語であり、記号でもあります。そして、人間は、文学を理解するものです。文学を理解する人間の姿には、人間の高度な能力を見ることができます。高度な人間の能力の中には、深い問題が隠されています。
 つまり、文学研究は、奥が深い、ということです。人間と文学との付き合いには、長い歴史があります。人間にとって文学とは、どのようなものでしょうか。それは、人間と非常に深い関係のあるものです。人間という存在は、文学を抜きには考えられないほど、人間と文学とは密接に関係しています。ロラン・バルトの場合は、言語学と記号学とを利用して、人間と文学との問題に挑戦します。しかし、人間と文学との問題を、ロラン・バルトは全て解決できたのではありません。文学研究を深く追求するに従って、次々に新しい問題が発掘されるものです。その理由は、文学が、人間の本質と非常に深い結び付きがあるからです。人間が生きることと、人間が言語を使用することとは、切り離せない関係にあるのです。人間は、生きている限り、言語を使用するのです。人間が生きる、ということは、人間が記号と触れ合う、ということでもあります。そして、人間が記号と接触すれば、人間は、言語を使用するものなのです。そして、言語の使用から、文学が誕生するのです。人間は、記号の世界の中に生きています。そして、記号があれば、言語も存在するものです。つまり、文学は、人間の人生そのものであると考えられるのです。








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