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金曜日

西洋の倫理・道徳




ピタゴラスの神秘主義について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日は、ピタゴラスの神秘主義について考えます。ピタゴラスは、古代西洋において活躍した人です。ピタゴラスは、「ピタゴラスの定理」という、直角三角形の法則で有名です。
 ピタゴラスという人物については、合理主義の面と、非合理主義の面との、二面性を考えることができる人物です。ピタゴラスの合理主義の面とは、ピタゴラスが数学の法則を追求する面です。そして、ピタゴラスの非合理主義の面とは、ピタゴラスが宗教的な教義を信仰する面です。ピタゴラスは、数学を研究しながら、宗教を信仰するのです。ピタゴラスには、数学者としてのピタゴラスと、宗教家としてのピタゴラスとの、二面性があるということです。
 ピタゴラスは、ピタゴラス教団を作り、弟子たちを集めていたという話です。つまり、ピタゴラスは、ピタゴラス教の教祖であるということです。そのピタゴラス教団では、霊魂の不死についての信仰をします。そして、その教団では、霊魂は不滅である、という信仰に従った生活を送ります。霊魂は不滅であるので、日常生活の中では、霊魂を大切にしながら生きるべきである、と、ピタゴラス教団は主張するのです。つまり、ピタゴラス教団の教えは、人間の現実生活の場面にまで影響を及ぼすのです。ピタゴラス教団の教えを守って、人間は生きるべきである、という考えなのです。それは、人々の現実生活にまで影響を与えるのです。現実の生活を改善しましょう、という考え方です。そのことから、ピタゴラスは、数学の研究を、人間の現実生活の向上に役立てようと考えていた、ということを推測することができるのです。ピタゴラスの数学研究は、ピタゴラスの世界観や、人生観と、密着に結びついていた、ということです。
 つまり、ピタゴラスの世界観の形成に、数学研究が役に立っていたのです。それは、ピタゴラスの信仰生活の中において、数学研究の意義が見出されていた、ということです。ピタゴラスの宗教の信仰と、ピタゴラスの数学研究とは、切り離して考るべきものではない、ということです。ピタゴラスには、合理的な面と非合理的な面とが考えられる、ということではあるけれども、基本的には、ピタゴラスはピタゴラス教の信者であった、ということです。ピタゴラスは、数学を宗教上の理由で研究するのです。ピタゴラスの世界の中では、数学の研究は自分の信仰上の重要な決まり事であったと考えられるわけです。
 つまり、ピタゴラスの二面性は、ピタゴラス自身の中では解決されているのです。ピタゴラスにはピタゴラスの信条があったのです。ピタゴラスの数学研究と、ピタゴラスの宗教信仰とは、一体性があったのです。ピタゴラス教団の霊魂の不滅という、宗教の信条と、数学法則とが、一体となっていたのです。表面的に見れば、確かに、ピタゴラスには二面性があると考えられるのです。しかし、ピタゴラス教を深く信仰すれば、合理的と非合理的との対立などは、存在しない、ということです。つまり、ピタゴラスは、霊魂の重要性のただ一つだけを考えている、というわけです。魂一本です。ピタゴラス教の教えは、全部、「魂」と結び付いているわけです。数学も、魂のためにあると考えるべきなのです。
 つまり、魂を向上させないような数学では、認められない、ということです。社会的な利益を得るために、数学の研究を行ってはならない、という考えです。数学に対しては、神聖なものである、という心構えを持つことを、ピタゴラスは要求するのです。数学を研究することで、世界の真相が明らかになるのです。闇に覆われていた世界の真相が、数学の研究によって、理解できるようになるのです。隠されていた世界の神秘が、解明されるのです。数学の体系の秩序と、世界の秩序とが、適合するのかもしれません。神が作った世界の法則と、数学の法則とが、合致しているのかもしれません。数学の法則が、神や霊魂と結び付いているのかもしれないのです。そのような神聖な数学を、人間社会の利益を追求するためのものとして、扱わないようにするべきだ、ということです。ピタゴラスの数学研究の極意は、「数学の中に、神を発見してこそ本物だ」というわけです。数学によって、魂を鍛えるのです。お金の計算をするための数学ではないのです。そしてまた、数学は神とも結び付いているという心構えで、積極的な姿勢で、数学と語り合うことが求められるわけです。数学は、嫌々勉強するものではない、ということです。純粋な心で、自分の魂を向上させるため以外の目的を持たずに数学を勉強するべきなのです。
 つまり、合理的な事を追求する数学研究が、非合理的な宗教上の信条とも結び付く、ということです。合理と非合理との共存です。しかし、そのことは、科学が発達した現代社会においても、見受けられる状況です。現代の無宗教と考えられる社会の中で生きる人々の中にも、合理と非合理との心が共存しているものです。現代社会の中に生きる人々の中にも、非合理的な信仰を抱いている人は多い、ということです。その証拠に、霊感商法の存在があるのです。霊感商法に騙される人の事件は、現代社会の中で実際に起きています。宗教的な心情は、誰もが持っているものであるのかもしれません。その、誰もが持つ、宗教的な心情を利用して、霊感商法を繰り広げるのです。現代は「科学の時代」、「無宗教の時代」と言われながら、現代人の心の中に、非合理的な宗教的心情が存在しているのです。現代人も、神社に行ったり、お墓参りに行ったりします。つまり、合理的な面と非合理的な面とを持つ、ピタゴラスと同じであるのです。現代人もピタゴラスも、宗教的心情を持ちながら、自然科学の勉強をしているのです。
 科学者で宗教心の厚い人であれば、特にピタゴラスと共通した人物であると認められます。その科学者が、自分の科学的研究を、神の世界の秩序を発見する行いであると考えていれば、まさに、ピタゴラスの神秘主義です。科学と宗教とが一体となっているのです。宗教家でありながら、科学者であるわけです。非常に高度な科学的理論を研究しながら、神と霊魂に対する信仰心を持つ人です。しかし、科学者ではなく、一般の人であっても、義務教育で数学を勉強したわけであるので、もしも、その人が宗教心を持っていれば、ピタゴラスの神秘主義と似た部分があると考えられます。








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