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金曜日

西洋の倫理・道徳




プロティノスの「ヌース」について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日のテーマは、プロティノスの「ヌース」について、です。プロティノスは、古代の西洋で活躍した人物です。
 プロティノスの「ヌース」とは、プロティノスの考える世界観において考えられるものです。プロティノスの世界観は、プロティノスの三位一体説の中で示されています。プロティノスは、世界を三位一体説によって考えるのです。
 プロティノスの三位一体説は、世界を、三段階層で考えます。上から、一番高い位、次に二番目の位、そして、三番目の低い位を、プロティノスは考えるのです。三段階の世界です。そのような、プロティノスの三位一体説は、人間の存在とも関わりがある説なのです。つまり、プロティノスの三位一体説を、人間存在と切り離して考えるべきではない、ということです。プロティノスの三位一体説は、常に人間の存在と、密接に結び付いているのです。プロティノスの三位一体説は、世界を三段階層で考えます。世界を考える三位一体説であるのならば、世界の中に生きる人間の存在とは、深い関係があると考えられるのです。
 プロティノスの三位一体説は、世界の、原理を考えるような説です。世界は、どのような原理で構成されているものなのかを考えるのです。そして、その世界の中に、人間が実際に生きているのです。世界と人間とが、別々に離れて、無関係に存在するのではありません。そのため、プロティノスの三位一体説を、真剣に考えるためには、それを自分と関係のある説と受け止める必要があるのです。つまり、プロティノスの三位一体説が、「自分の考える世界観とは異なるから」という理由で、それを真剣に考えない姿勢は改めるべきであるのです。
 プロティノスの三位一体説で、一番上の位に考えられるものが、「一なるもの」です。それは、世界の全存在の根拠であると考えられるものです。そして、二番目の位が、「ヌース」です。「ヌース」は、「一なるもの」の、景色です。「一なるもの」の映像が「ヌース」であるということです。そして、三番目の位にあるものが、「霊魂」です。「霊魂」は、現実の人間が生きる自然世界と、深く関わりがあるものです。「霊魂」は、三位一体説の中では一番低い層にあるものと考えられています。つまり、「一なるもの」と、「ヌース」は、人間の現実世界から超越した、上位の存在なのです。そして、「霊魂」が、人間の現実的世界と結び付きのある、下位の存在であるのです。プロティノスの考える、「ヌース」とは、三位一体説の中で、二番目の位に存在するものです。「ヌース」は、一番上にある位ではなく、そして一番下の位でもない、ということです。
 そのようなプロティノスの三位一体説において、実際の人間の存在と深く結び付くものが、「霊魂」です。それは、人間の実際の現実的生活と結び付いている、という意味です。人間は、「霊魂」とだけ関わることができる、という意味ではありません。「霊魂」は、「ヌース」とも、「一なるもの」とも関わることはできるのです。プロティノスの主張では、下位の存在である「霊魂」が、その上位の存在の「ヌース」や、「一なるもの」と、関わり合いを持つことは可能であると考えられます。そして、その、下位の「霊魂」が、上位の「ヌース」と、交流することが、プロティノスは価値のあることであると考えるのです。「霊魂」は、現実の自然的世界に生きる人間に備わるものであると考えられます。しかし、その「霊魂」の上位に、「ヌース」という存在があるのです。それは、人間以上の存在であるのです。そのため、「ヌース」は、人間にとって、非常に素晴らしい存在なのです。人間が生きている自然の世界も、確かに美しいものです。しかし、その人間の世界よりも、上級の世界があるのです。そこで、人間は「ヌース」と交流を結ぶべきであると、プロティノスは主張するのです。人間は、目に見える自然の世界だけを考えるのではなく、目には見えない「ヌース」のことも考えるべきであると、プロティノスは主張するのです。
 「ヌース」は、「一なるもの」の実像ではなく、その映像です。映像ではあるのだけれども、しかしそれは、「霊魂」よりも上位にある存在なのです。上位にある存在であるのならば、それだけ価値が高いのです。価値が高ければ、それを追求するべきです。プロティノスは、「霊魂」が上向きであれば、「ヌース」を見ることができると考えています。そして、「霊魂」を下向きにする場合は、人間には自然世界の姿が見えるとプロティノスは考えるのです。つまり、自然世界の姿だけを見る人は、魂が常に下向きの人である、ということです。プロティノスは、人間の魂を上向きにさせることを考えているのです。魂を上向きにさせれば、上位の存在と交流することができるのです。「ヌース」と、魂との交流の機会を、積極的に設けるのです。魂の向きを、下から、上へ向けることです。それにより、自然世界を超えた存在である、「ヌース」の姿を見ることができるのです。ヌースを見ることは、ヌースと触れ合うことでもあります。ヌースとの、魂の触れ合いを大切にするのです。上位の存在の、ヌースのことを人間は考えるべきであるのです。それにより、人間の品性の向上の効果を得ることができます。
 プロティノスの考える「ヌース」とは、神の映像であるとも考えられるのです。実像ではなく、映像です。神と直接に出会うことは難しいので、映像で満足するのです。それは、人間にとって、非常に貴重な価値のある映像です。人間が見ることのできる美しい映像の中でも、最上級の美しさです。そのような「ヌース」を、人間は見ることができるのです。なぜ、人間は、「ヌース」に魂を向けないのでしょうか。魂を、自然世界にだけ向ける生き方も、悪いものではありません。しかし、世界は、三段階層で考えられるのです。その考え方では、霊魂の世界の上に、ヌースの世界を考えるのです。それが世界の原理です。今、実際に、人間が現実に見ている世界だけが、全部ではない、ということです。それが理解できれば、当然、人間は魂を上へ向けるべきなのです。魂を、少しでも、ヌースに近づけるのです。
 しかし、魂をヌースに近づけるべきである、ということで、それを、自然世界から逃避するべきである、というように考えてはなりません。霊魂は自然世界にあるのです。その霊魂が、ヌースに近づけば、自然世界にも利益があるのです。自然世界も改善されるのです。魂をヌースに向ければ、それだけ、自然世界にヌースの恩恵がもたらされるのです。逆に、魂をヌースの方へ向けない場合の方が、自然世界を改善することにはつながらないのです。自然世界を改善するためにも、魂を上向きにさせ、魂とヌースとを触れ合わせるべきなのです。それは決して、魂の自然世界からの逃避ではないのです。魂は、常に自然世界と向き合っています。魂は自然世界と向き合わざるを得ない状況なのです。その状況の中で、魂を上へ向けるのです。魂は、自然世界からは逃避できない状況なのです。その状況の中で、ヌースの方へ近づくことが、価値あることなのです。魂は、肉体の中に入っている、という、避けられない現実があるのです。その現実状況の中で、魂を、ヌースの方へ近づけるのです。








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