金曜日
西洋の倫理・道徳
パスカルの『パンセ』について
金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、パスカルの『パンセ』について、です。パスカルは、近代の西洋で活躍した有名な人物です。
パスカルの『パンセ』では、人間の性質と、神への信仰とに関する主張がなされています。人間の行動は、空虚な感情に基礎を置いているとパスカルは考えます。人間は現象世界に生きる存在であり、そして、その現象世界の背後にある根拠を、人間は知ることができない、とパスカルは考えます。そのような考えから、パスカルは、神への信仰は賭けであると主張します。パスカルの『パンセ』では、人間の性質の問題と、神への信仰の問題とが考えられています。
パスカルは、人間の性質には、健全な部分と、悲惨な部分とがあると考えます。人間の行動の全ては、空虚な感情によって支配されています。健全な人間も、悲惨な人間も、空虚な感情を抱いて行動を決めています。人間の行動に、根拠があれば、人間は空虚ではありません。人間が、確実な根拠を持っているのであれば、人間の存在は空虚ではないのです。パスカルは、根拠を求めているのです。真実で確実な根拠があれば、人間は空虚な行動を避けられるのです。人間は、真理に基づいた行動をとることができれば、理想的であると、パスカルは考えているのです。しかし、現実の人間は、空虚な感情に基づいて行動しているのです。空虚であるため、不幸と悲惨との悩みを人間は抱いています。真理の根拠があれば、人間は不幸と悲惨とから離れられるわけです。パスカルは、空虚を否定して、根拠を求めるのです。
パスカルの考える、人間の健全さの部分は、人間の行動の中の、真理に基づいている部分に見られるのです。人間は、真理の根拠に基づいた行動をとる性質もあります。それは、人間の健全な部分です。人間は、全ての行動を、空虚な感情によって決めているのではありません。空虚な感情によって行動をとる人間の性質は、悲惨なのです。確実な幸福は、確実な根拠に基づいた行動によって、得られるのです。悲惨というものは、不幸であるということです。悲惨は不幸なのです。つまり、人間の不幸の原因は、真理に基づいた行動を、とらないからです。人間の不幸と、人間の行動の決定要因である、空虚な感情とが、結び付いているのです。人間を幸福にする、健全な行動は、真理に基づいた行動です。空虚な感情に基づいた行動は、人間に不幸と悲惨とをもたらす原因となります。それは全ての人間に当てはまる性質であると、パスカルは考えます。つまり、人間は、誰もが不幸で悲惨な性質の部分を持っているのです。しかし、人間には健全な部分もあります。
人間の健全な部分は、人間の行動で、真理に基づいた行動をとる部分です。ここで、理性の問題をパスカルは考えます。パスカルは、理性的な人間の行動を健全であると主張します。空虚な感情に基礎を置いた人間の行動は、悲惨です。しかし、理性的な行動をとる部分は、健全であるとパスカルは考えます。人間の理性的行為は、健全であると認められるのです。人間が理性的行為をとることは、人間が真理の方向へ向かうことの証拠です。人間は、真理の方向へ向かえば、健全である、ということです。人間の性質の、全てが悲惨ではないのです。人間の悲惨な性質の中にも、健全な性質の部分があるわけです。人間の行動を基礎付ける全てのものは、空虚な感情ではないのです。人間は、真理の根拠に基づく、理性的な行動もとる存在なのです。
つまり、パスカルは、人間という存在を、悲惨であり、また、健全であるような存在と考えるのです。人間の存在の、悲惨さと、健全さとの、両方の部分を理解するべきであるとパスカルは主張します。人間の悲惨さの原因は、基礎の空虚さにあります。空虚が人間に悲惨さをもたらすのです。そして、人間が健全に生きることは、根拠を持って生きることです。真理が、人間の根拠となるものです。人間が空虚の中で生きていることは、悲惨なことです。しかし人間は、空虚の中で生きながら、根拠ある真理の方向へも向かって生きる存在なのです。人間には、悲惨な存在である部分と、健全な存在である部分とが、混在しているのです。
空虚と悲惨さとが結び付いており、そして、根拠と健全さとが結び付いているわけです。そのため、人間は根拠を得ることを望むのです。根拠さえあれば、人間は健全に生きられるのです。そこで、その根拠を、どのように得るのかが問題となります。人間に、確実な根拠は得られるのか、という問題です。では、根拠とは何でしょうか。
根拠とは、現象の背後に存在する、現象を根拠付けるものです。そして、人間は現象の世界の中に生きていると、パスカルは考えるのです。人間は、根拠の世界、真理の世界には生きていないのです。そのため、パスカルは、人間には真実の根拠を得ることはできない、と考えるのです。人間の生きている、現象の世界の背後には、根拠の世界があるわけです。しかし、人間は、その根拠の世界の真理を、知ることができないのです。人間に根拠が与えられれば、人間は悲惨さから離れられるのです。真理に基づいた生き方が、人間の健全な生き方です。そのような真理を、人間は知ることができないので、人間の悲惨な人生は、宿命的なことなのです。真理は、人間の理性によっても知ることはできないと、パスカルは考えます。人間の、理性的な生き方は、健全な生き方です。しかし、人間の理性では、根拠を理解することは不可能なことです。不可能ではあっても、理性を使い、そして、真実の方向へ生きようとする、その人間の姿勢が、健全なのです。隠された真実の方向へ向かう、人間の生き方が健全なのです。人間には、真理を意志して、真理に生きることを願う、健全な存在である部分も見られるのです。人間は真理を知ることはできないけれども、しかし、人間は理性によって、真理に基づいた行動をとろうとします。そのような、真理を意志する人間の姿が、人間の健全な部分であるとパスカルは考えるのです。
つまり、人間は理性的に生きたとしても、決して、真実の生き方はできないのです。真理を人間の理性で知ることはできないのです。そこで、パスカルは信仰に賭けることを考えるのです。神への信仰に、人生を賭けるかどうかが問題なのです。神への信仰は、人間の理性的な行為ではないのかもしれません。しかし、人間の理性を頼るのか、それとも、不確実な神の存在を頼るのかを決めるのです。神の存在は、不確実な存在です。数学を勉強することでは理解できません。神への信仰は、賭けなのです。
つまり、パスカルは人間の理性の限界を考えているのです。人間の理性では、現象世界の背後にある、確実な根拠を知ることはできないとパスカルは考えるのです。しかし、根拠の世界に、人間の幸福があるのです。そして、その根拠の世界の真理に基づいて生きる、人間の姿勢が健全なのです。人間には、理性によって、真理の世界に接近しようとする、健全さがあります。それが、神への信仰に賭けることによって、人間は真理の世界の中へ行くことができるのかもしれないのです。理性では、真理の世界に接近する以上には進めないのです。理性では、現象の世界の壁を乗り越えられないわけです。人間の健全な理性が、真理の根拠を求めたのではあるけれども、しかし、壁に当たってしまったのです。真理を求める人間の理性が、真理を得られない状況です。その先へ行くには、神への信仰に賭けなければならないと、パスカルは主張するのです。
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