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水曜日

東洋の倫理・道徳




王陽明の「事上磨錬」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、王陽明の「事上磨錬」について、です。王陽明は、中国の明の時代に活躍した、有名な人物です。
 王陽明の「事上磨錬」は、彼の、知行合一説と関わりがあります。王陽明の「事上磨錬」の意味は、王陽明の学説全体の中で、理解されるものです。王陽明の「事上磨錬」は、人間の、外面の部分を練磨しなさい、という主張です。王陽明は、知行合一説を主張します。「事上磨錬」の考え方には、「知行」の、「行」の部分も大切にする姿勢があります。
 「事上磨錬」は、人間の修養の方法を考えたものです。それは、心の外の、事物に即した上で、鍛錬するべきである、という主張です。王陽明は、まず、人間の修養の方法として、「静座」の必要性を考えています。静座によって、内面を、静かに見つめ直すことが必要なのです。しかし、静座をするだけでは、知行合一説を達成することができません。静座の修養だけでは、「知」に片寄っています。人間は、行動しなければ、本物ではないのです。人間は、知行合一に達してこそ、本物であると、王陽明は考えています。そのため、静座だけでは、修養が足らないのです。行動がありません。人間が行動するために必要な修養は、「事上磨錬」です。人間は、事物に即して、鍛錬をしなければならない、という説です。確かに、心の重要性は、大きなものです。しかし、心の外の世界も重要であると、王陽明は考えるのです。心の外の世界を重視する態度に対応した修養方法とは、どのようなものでしょうか。その修養方法を考えたものが、「事上磨錬」です。
 人間は、内面と外面とを、両方大切にしなければなりません。どちらかに片寄っている人間は、本物ではないと、王陽明は考えるのです。知行合一に達する人物が本物です。外面だけに片寄る人間は、道理を理解していない人間であり、本物ではありません。外面だけの人間は、一貫した行動がありません。そして、内面だけに片寄る人間は、実践行動のできない人間であり、本物ではありません。内面だけに片寄る人間は、表面的には、奥深い人間であるように見えます。しかし、実践行動のできない人間は、全然奥深い人間ではない、ということです。内面だけに片寄る人間は、表面的な人間なのです。なぜなら、本当に物事を理解している人物であれば、行動に移すはずだからです。行動に移さない人物は、深く物事を理解していないのです。本当に物事を理解することができれば、実践行動に移すはずです。内面だけに片寄る人間は、口先だけの人間であると認められるのです。そのような人物は、道理が理解できていないのです。道理を本当に理解することができれば、人間は、理解したことを、行動に移すはずです。
 つまり、片寄って内向的な人物は、本物の人物ではないと考えられるのです。そのような人物は、内向的であると見せかけて、実は内向的ではないのです。本物の内向的な人物であれば、道理を深く理解できているはずです。内向的な人物とは、深く道理を反省する人物です。そして、本当に深く道理を反省したのであれば、その人物は、道理に対する「知」を得ているはずです。つまり、本物の内向的な人物であれば、道理を知っている人物なのです。そして、道理を理解する人物であれば、当然、行動ができる人物です。そのため、内面に片寄って、行動のできない人間は、本物の内向的な人間ではないと考えられるのです。行動のできない人物は、理解が足らないのです。理解が足らないのは、内向的ではない証拠です。内向的であると見せかけて、実は内向的ではないのです。行動のできない内向的な人間には、内向的行為である、静座の修養が必要なのです。内向的な人間は、本当の内向的行為ができれば、行動に移せるはずです。なぜなら、道理を理解することができるからです。行動ができない人物は、道理を理解できていないのです。本物の内向的人物であれば、行動に移すことができるのです。つまり、知行合一を達成できる人物が、本当に立派な人間であると考えられるのです。偏りのある人間は、本当ではありません。
 知行合一説は、奥深い説です。例えば、「知識人」と呼ばれる人間がいます。その人物は、知識を豊富に持っている人物であると考えられます。しかし、本当の知識人であれば、行動することができるわけです。つまり、行動のできない知識人は、本物の知識人ではない、ということです。知識人と呼ばれているのにも関わらず、本当は知識人ではないのです。本物の知識を持っていれば、行動ができるはずです。行動ができない場合、その知識人は、「知」を得ていないのです。本物の知識を豊富に持つことができれば、その知識の豊富さに伴って、行動も豊富になるはずです。知識の豊富さと、行動の豊富さとが、同じ程度である姿こそが、本当の姿です。つまり、行動のできない知識人は、知識人と呼ばれながらも、知識人ではないのです。本当に知識を得ている知識人であれば、実践行動ができる人物です。行動ができないことは、本当の知識を得てはいない証拠です。そのような知識人は、内向的な人間であると見せかけて、実は内向的な人間ではないのです。行動ができる人物であってこそ、本物の内向的人物です。
 まず、内向的な人間の修養方法として、「静座」があります。静座をすれば、自分の心の中の、良心を知ることができるはずです。「胸に手を当てて考える」ということです。胸に手を当てて考えることが、静座です。静かに、落ち着いて、自分の心の良心が語りかけることを感じるのです。王陽明は、人間の本来の心を、善性であると考えています。王陽明は、人間の心の性質を、善性である良心と考えています。人間であれば、誰でも良心を持つのです。人間は、自分の良心の声を、大切にしなければなりません。その良心の声を、静座によって明らかにするのです。静座をすることにより、良心の声を知ることができます。王陽明にとっての真理とは、良心です。人間の持つ、良心こそが真理です。つまり、「真理を明らかにする」とは、良心を明らかにすることなのです。真理が、人間の心の中に備わっているのです。そのため、正直な気持ちで、静座をすれば、真理を知ることができるのです。しかし、王陽明の考える修養方法は、静座だけではありません。
 王陽明は、知行合一説を主張します。人間は、内面と外面とが合一しなければ、本物の人間ではないと考えます。内面の修養方法が、静座です。そして、人間の外面の修養方法が、「事上磨錬」です。それは、人間の心の外の、事物に即した鍛錬です。王陽明の考える修養方法は、主に二種類に分けられるのです。人間は、心の外の、事物の存在を認めなければなりません。現実世界を、人間は肯定しなければなりません。現実世界に立ち向かってこそ、人間は練磨されるのです。静座だけでは、人間が練磨されないのです。自分の心の中の真理と、自分の心の外の真理とが、異なる場合であっても、人間は、心の外の真理を否定するべきではありません。現実世界の事物を否定する態度は、改めるべきです。自分の心の中の真理だけを、大切に考えてはならないのです。人間は、心の中の、理想の世界を求めるものです。しかし、理想の世界だけではなく、現実の世界も、重視しなければなりません。静座をするだけでは、現実の世界から目を背ける態度です。静座をして、心の中に思い浮かんだ、理想の世界を眺めているだけでは、現実世界に対応できる人間に練磨されません。心の外の、事物に即した鍛錬が、人間には必要なのです。「事上磨錬」のない、静座だけの修養方法では、片寄った修養方法なのです。王陽明は、人間の心を非常に大切に考えています。しかし、心と同時に、行動も大切にするのです。知行合一を達成できる人間が本物です。口先だけの人間では、本当には、自分の言っていることを理解できていないのです。口先だけで、行動のできない人物は、理解が不足しているのです。しかしまた、静座のない、「事上磨錬」だけの修養では、道理を知らずに、現実世界に翻弄されながら生きる人間になります。人間は、良心を発揮しながら、現実世界の事物に即した生き方をするべきです。








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