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水曜日

東洋の倫理・道徳




欧陽公の「春秋論下編」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、欧陽公の「春秋論下編」について、です。欧陽公は、中国の宋時代に活躍した有名人物です。
 欧陽公の「春秋論下編」では、欧陽公の高い推理力が発揮されています。『春秋』は、聖人の著した書物です。そして、欧陽公は、『春秋』を解釈した書物の内容に対して、異議を主張しています。問題は、『春秋』の解説書です。欧陽公は、『春秋』は正しいけれども、『春秋』の解説書には誤っている部分があると主張しています。『春秋』の解説書の中には、誤った部分を見出すことができるのです。『春秋』は、聖人の著した書物である点を、深く考慮するべきであると欧陽公は主張しています。『春秋』の解説書の中には、聖人の意図を深く汲み取っていない部分を発見できるのです。欧陽公は、「春秋論下編」で、『春秋』の解説書に対して批判を行います。欧陽公は、聖人の著した『春秋』を、正しく読み取るべきであると考えています。『春秋』の解説書には、物事の道理を理解していない部分が見受けられるのです。常識的に判断すれば、当然であることを、『春秋』の解説書は見落としているのです。欧陽公は「春秋論下編」の中で、公明正大に、説得力のある展開で、『春秋』の解説書を批判しています。
 『春秋』は、聖人の著した書物であり、その書物の意図は、物事の善悪の道理を正すことにあります。欧陽公は、『春秋』を、物事の善悪の道理の通った書物であると考えています。『春秋』に書かれてある内容は、善悪の道理が正しいのです。その道理に照らし合わせて考えれば、『春秋』の解説書の誤りは明らかになると欧陽公は主張します。欧陽公の「春秋論下編」では、善悪の道理を根拠にして、『春秋』の解説書の中にある問題部分を批判しています。
 欧陽公の「春秋論下編」は、『春秋』の中の、殺人事件に対する問題を考えています。犯罪者には、刑罰を加えるべきであると考えられます。犯罪者には、制裁を加えるべきなのです。犯罪者に刑罰を加えることは、社会の平和のためにも必要なことです。『春秋』は、犯罪者が刑罰を受けることから逃れることを許しません。聖人は、犯罪者は刑罰を受けるべきであると考えるのです。欧陽公は、聖人の意図を深く考えているのです。『春秋』の意図する所は、犯罪者を非難する所にあると考えられます。『春秋』には、犯罪者に対して、「犯罪者である」と書き残すことによって、社会に起こる犯罪を未然に防ぐ意図があります。『春秋』は、聖人が社会の平和のことを考えて著したのです。犯罪者は、自分が犯罪者として世間に広く知れ渡ることを恐れます。犯罪者も人間なので、恥を知っています。そのため、犯罪者は、自分の犯罪行為が本に書かれることを恐れるのです。広い心を持っている聖人であったとしても、殺人事件は許しません。殺人事件に対しては、刑罰を加えるべきです。『春秋』は、犯罪者に対しての、刑罰の意味もあります。人間は、他人から犯罪者扱いをされたいとは思いません。聖人も、犯罪者の気持ちを理解しているものです。そのため、聖人は、犯罪者の名前を公表することを極力控えるものです。犯罪者として自分の名前が公表されることになれば、どのような人間であっても気分を悪くします。聖人は、他人の気分を配慮をします。よほどのことでなければ、聖人は他人の気分を害する行為をしません。その聖人が、『春秋』の中に、犯罪者の名前を公表しています。それは、犯罪者が行った犯罪を、聖人が許さないからです。犯罪者が聖人を怒らせたのです。欧陽公の「春秋論下編」では、殺人事件に対する刑罰の問題が考えられています。聖人の意図を考えながら、欧陽公は『春秋』の解説書の誤りを指摘します。『春秋』の解説書は、善悪の道理を理解できていないのです。
 聖人は広い心を持っているので、よほどのことでなければ、他人のことを「犯罪者である」とは書物に著しません。聖人であれば、慎重な態度で他人に刑罰を加えるものです。聖人は軽々しく刑罰を行いません。『春秋』の中に、「犯罪者である」と書くことは、その犯罪者に対する、一種の刑罰です。刑罰を行う際は、慎重な態度が必要です。刑罰に誤りがあってはなりません。現代においても、裁判官は、厳格な態度で犯罪者に刑罰を加えます。聖人も、裁判官のような姿勢で、犯罪者に刑罰を加えるものであると考えられます。聖人は、慎重な態度で『春秋』に犯罪者の名前を書いたのです。そのため、『春秋』に書かれてある犯罪者に対しての記述は、信頼性があると考えられるのです。聖人は、犯罪者でない人間に対しては、「犯罪者である」とは絶対に書きません。犯罪者ではない人間に対して、犯罪者扱いをすることは、非道な行為です。それは、名誉毀損の行為です。聖人は、名誉毀損の行為を行いません。聖人は犯罪者を、慎重な態度で確定します。そのため、聖人によって確定された犯罪者は、犯罪者として確実に認めることができるのです。『春秋』の解説書では、『春秋』が犯罪者扱いしている人物を、実際には犯罪を行っていない人物であると説明しています。欧陽公は、『春秋』の中で犯罪者扱いされている人物は、実際に犯罪を行ったと主張します。実際に犯罪を行ったので、『春秋』は犯罪者を犯罪者扱いしていると欧陽公は考えます。
 裁判官は、一度出した判決を覆すことは通常あり得ません。裁判官が判決を軽々しく変更すれば、裁判に対する人々の信用がなくなってしまいます。裁判官は、裁判の信用失墜を防がなければなりません。誤った判決は、判決を受けた人物に対しての名誉毀損にもつながります。聖人であれば、誤った判決を下さないものです。聖人は、事実関係を慎重に調べてから判決を下すものであると考えられます。聖人は、いい加減な事を書き残すことはありません。欧陽公は、『春秋』の著者を信用しています。聖人が道理に外れた行動をとることはありません。人間を犯罪者扱いすることは、人間の名誉を大きく傷付けます。聖人が他人の名誉を重んじることは当然のことです。聖人は、他人に対して礼儀を尽くします。そのような聖人が、他人の名誉を大きく傷付ける行動をとったのです。聖人が他人の名誉を傷付けることは、通常では考えられないことです。しかし、聖人は、社会の平和のためには、犯罪者を許しておくことができません。聖人であっても、犯罪を行った人間の名誉まで守ることはありません。聖人は、犯罪者には刑罰を加えるべきであると考えています。他人の名誉は大切にしなければなりません。しかし、犯罪者が刑罰から逃れることは許されないことです。犯罪者には刑罰を加えることが正義です。犯罪者に刑罰を加えることは、社会全体の幸福につながることです。ただし、刑罰を受ける当の本人にとっては、大きな被害を受けるであろうことが予想されます。そのため、刑罰を受ける当の本人の人権は、最大限に配慮されなければなりません。聖人は、一人の幸福よりも、社会全体の幸福を考えます。しかし、聖人は一人の幸福のことも大いに考慮するものです。聖人は、犯罪者とされる人間に対しても、配慮を欠かしません。聖人は軽々しく、他人を犯罪者扱いしません。
 つまり、『春秋』の解説書は、軽々しい行動をとることのない聖人の性格を理解できていないのです。『春秋』の解説書は、聖人の慎重な裁判を信用していないのです。聖人は、実際には犯罪を行っていない人物を、犯罪者扱いにするようなことは絶対にありません。欧陽公が問題と考える部分は、殺人事件の部分です。聖人が、実際の犯人ではない人物を、殺人事件の犯人として扱うようなことは絶対にありません。間違って殺人事件の犯人にされた場合、それは犯人にとっては取り返しのつかないような名誉毀損の行為です。他人の名誉を重んずる聖人は、軽々しく他人を殺人事件の犯人としては認定しないものです。それは、常識的に考えればすぐに気付くことです。『春秋』の解説書に従えば、聖人が常識に反する行動をとっていることになります。欧陽公の的確な推理力には説得力があります。








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