トップページへ                 東洋の思想ページへ




木曜日

東洋の思想




王者と天子について


 木曜日は、東洋の思想の日です。今日の題は、王者と天子について、です。中国には、古代の時代から、王者のことを「天子」と呼ぶ考え方があります。
 「王者」と「天子」とは、異なる内容を持っています。「王者」の場合は、人間に近い意味があります。しかし、「天子」の場合、人間から離れた意味があります。それは、「天」の言葉の意味を理解できれば、王者と天子の違いを理解することができます。「天」は、人間よりも上位に位置する存在です。「王」は、人間社会の範囲の中で理解される存在です。「天」と「王」との違いがあるわけです。
 古代の人々には、自然を非常に敬う気持ちがありました。古代の人々は、自然によって生かされている実感を、強く持っていました。それは、中国人だけに特有の感想ではありません。社会文明の発達していない時代では、人々の、自然に対する畏敬の感情は、大きくありました。それは、人類に共通した感情です。現代文明の中で暮らす人々は、自然への深い感慨は少ないものです。しかし、自然に囲まれた環境にある人間は、自然を大切に考えるものです。古代の人々は、常に自然に囲まれて暮らしていました。そのため、自然への畏敬の念が強かったのです。古代の人々は、中国人に限らず、自然を敬う気持ちが大きかったのです。古代の人々は、自然環境と共に生きていたのです。自然環境からは、人間は、厳しさや、恵みを受け取ります。それらの自然環境には、厳しい面でも、優しい面でも、共に人間の力を超えた威力があります。自然は、人間の想像を絶する活動をしています。自然の活動に、人間は振り回されながら生活を送るのです。人間の、自然に対する感情には、脅威の気持ちと、感謝の気持ちとがあります。自然は、人間にとって偉大な存在なのです。常に、自然は人間の力を超えているわけです。確かに、人間は、人間に対しても、脅威と、感謝の気持ちを抱くものです。しかし、その大きさは、自然と人間とでは、比較できないほどに離れています。人間は、人間に対して、自然と比較した場合、小ささを感じるのです。人間は、自然を超えることはできないと、自覚しています。人間の人生も、自然の活動に振り回されるものです。一人の人間が、全力を出して自然に立ち向かったとしても、自然の力の前では、人間は無力な存在です。自然と人間とでは、圧倒的な差があります。その圧倒的な差に対して、人間は、自然を敬う気持ちを表現します。中国人だけが敬いの気持ちを持つのではなく、人類が共通して同じ感情を抱きます。何かの感情を持てば、その感情の表現が見られるものです。中国人の場合の表現は、「天」であったのです。
 つまり、「天」とは、人間の力を超えた存在である、自然のことです。「天」の言葉には、人間の存在を、あらゆる面で超えている意味があります。人間離れした存在が、「天」です。それは、古代の人々の、自然に対する畏敬の感情から表現された言葉です。「天」は、人間離れした存在でありながら、人間よりも偉大な存在です。人間から、かけ離れて、「天」は偉大なのです。「天」のことを、「神様」であると言い換えることもできるかもしれません。また、「天」を、宇宙全体であると考えることもできます。それは、古代の人々が、自然全体に対して持つ感想です。「天」は、絶対に、そして、永遠に正しく、また、不滅の存在です。永遠不滅の存在が「天」です。「天」は、人間の持つ短い寿命からでは、想像をすることさえできない程の、長い歴史を経ています。人間は、人生経験の長い人物であるほど、敬うべき人物であると考えます。「天」が経験した歴史は、人間の人生経験を遥かに超えています。つまり、人の力では、「天」の持つ力には到底及びつかないのです。それは、あらゆる面において当てはまります。人間の持つ、物質的な力においても、精神的な力においても、「天」は人間を上回ります。そのため、人間は、「天」に従って生きるべきであると、考え出されるのです。人間は、どのような存在に従って生きるべきでしょうか。それは、優れた力を持つ存在に従うべきであると考えられます。「天」は、人間の力を超えた存在です。「天」は、人間よりも偉大な存在なのです。
 人間が社会生活を送るに当たっては、指導者が必要となります。社会で集団生活を営むに当たっては、人間には指導者が必要です。指導者に求められる条件は、優れた能力を持つことです。指導者は、社会の中で、非常に重要な役割を持っています。指導者が悪ければ、社会で生きる人々が苦しむことになります。人々は、自分たちの指導者に対して、優れた能力を求めます。そこで、人々は、優れた能力を持つ存在として、「天」を考えます。「天」ほど優れた存在はありません。人々は、幸福な生活を求めます。そのため、指導者の持つ能力には、大きなものを人々は期待します。指導者の行為によって、大勢の人々の生活が変化します。指導者には、人々の生活を導く責任があります。指導者には、人々の大切な人生を、振り回す役割があるわけです。人の人生を、悪い方向に導くような指導者では、指導者としては不適切な人物です。指導者は、人々をより良い方向へ導く必要があります。人々が、より良い人生を送ることができるように、指導者は配慮しなければなりません。指導者の持つ能力には、優れたものが求められます。責任の重い立場にある人間であるほど、優れた能力が求められます。多くの人々の人生を、振り回す立場に、指導者はあります。つまり、指導者は、一般の人々とは、責任の重さが違うのです。重大な役割を、指導者は担っています。そのため、平凡な人間には、指導者の立場には向いていません。指導者に求められる能力は、絶大な能力です。普通の人間の能力を、遥かに上回るような能力を持つことが、指導者には求められます。つまり、「天」のような力が、指導者には求められるのです。
 「天」が、人々に最高であると考えられるのです。「天」を上回る存在は考えられません。人間の才能でも、天才が最高です。天才であれば、指導者としてふさわしい人物です。また、指導者の地位自体が、人々の地位よりも、上の場所にあります。指導者の地位は、人々の雲の上にあるような地位なのです。「天」も同じように、人々の雲の上にあるような存在です。そのため、指導者の地位自体が、「天」であるように、人々には感じられます。指導者の地位にある人物であれば、人々よりも上の地位にある人物なので、「天」のような雰囲気があります。しかし、「天」の言葉は、最高の物事に対してのみ、与えることが許されます。「天」は超えられないのです。「天」を複数認めることはできません。「天」は絶対唯一の存在です。
 そのため、社会の集団の中の指導者を考える場合、人々は、最高の指導者を、「天」であると認めるわけです。「天」の人間の地位には、二人も三人も就くことはできません。それは、太陽のようなものです。太陽と同じように、「天」の人間も一人であることが望ましいのです。一人であれば、争いがないわけです。二つのものが同時に存在する場合、比較することができます。比較できる存在では、唯一絶対の存在であるとは認められません。唯一絶対の存在であることが、「天」の性格です。二つの存在が、同時に「天」である場合、人々に混乱が生じます。つまり、人間には、絶対君主を望む性質が備わっているのです。複数の君主がある場合、人々は混乱するわけです。また、社会にも混乱が生じます。
 上にある存在は、一つであることを、人間は望むのです。一つを望むために、人間は区別を設定します。一つの存在を、他から区別します。一つだけの存在は、特別な存在です。一つだけの存在には、魅力があります。それは、絶対的な存在です。特別であり、絶対的である存在は、人間ではないような感じがします。一つであれば、争いがありません。人間は、争いや対立を避けるものです。つまり、一つの存在は、争いを乗り越えた上の、頂上に立っているとも考えられます。厳しい試練を経た上で、一つの存在に成り上がった雰囲気があります。複数ある場合では、終着点にまでたどり着いていないのです。「王者」の場合、複数の存在です。複数の存在である場合、発展途上にある状態です。複数ある場合、人間は比較を考えたり、争いを考えたりするものです。最終地点は、一つであると、人間は考えるものです。人々は、決着を望みます。「天」であれば、人々の問題を最終決着させることができます。「天」は、人間から隔絶された存在です。「天」であれば、どのような人間であっても、納得しない人物はいません。








トップページへ                   東洋の思想ページへ






当ホームページ内の文章の引用・転載を禁止します。(C)matsui genemon.