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金曜日

西洋の倫理・道徳




オリゲネスの信仰について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、オリゲネスの信仰について、です。オリゲネスは、初期の時代のキリスト教の信者であった人物です。
 オリゲネスの教説は、キリスト教の発展の歴史に対して、大きな影響を与えたと考えられます。オリゲネスは、三世紀頃に活動した人物です。キリスト教にも、発展の歴史を考えることができるのです。キリスト教の組織は、最初から整備されていたのではありません。キリスト教に対する議論は、初期の時代には、定まっていませんでした。体系立てられたキリスト教神学は、キリスト教の初期の時代には、ありませんでした。オリゲネスの業績は、キリスト教神学の体系化に寄与したことです。オリゲネスの時代は、キリスト教の初期の時代です。オリゲネスの時代では、キリスト教が一般的ではありませんでした。
 オリゲネスの大きな業績は、キリスト教に、ギリシャ哲学を導入したことです。オリゲネスは、キリスト教と、ギリシャ哲学を、融合させたのです。中世の西洋では、キリスト教神学を、ギリシャ哲学に基づいて組織付ける考え方は、当たり前のことです。しかし、オリゲネスの時代は、キリスト教の信仰に当たっては、聖書の本を読み、人それぞれで納得する時代です。キリスト教の教説が、聖書のみの時代です。聖書には、神の奇跡が書かれています。人間の力では、できないような奇跡が、聖書には書かれています。つまり、キリスト教の信者とは、奇跡を信仰する人物であると考えられるのです。奇跡であるため、一般的ではありません。奇跡は、常識からかけ離れています。そのため、奇跡に対しては、一般人では理解できない場合が多いのです。聖書に書かれてあることは、世間の人々では、信じられないことが多いのです。キリスト教には、納得できない部分があるわけです。聖書の本を、そのままの形で読んだ場合、非常に多くの人々が、疑問を抱くのです。人間には、嘘を見抜く力があります。人間は、他人から騙されないように、注意しながら生きています。聖書を読む場合も、聖書に騙されないように、気を付けながら、一般の人々は読むものです。そして、聖書には、常識離れした、奇跡的な内容が多く見られるのです。そのため、一般の人々であれば、聖書に対しては、疑問を感じる場合が多いのです。つまり、聖書の本があるだけでは、キリスト教に対する人々の疑問は、解決されないのです。キリスト教にも、ガイドブックが必要なのです。人間は、すぐには奇跡を信じられないのです。まずは、人間は奇跡を疑います。疑問が解決できた場合であれば、人間は奇跡を信じられるのかもしれません。聖書だけでキリスト教を理解できる人物は、キリスト教の上級者です。上級者か、もしくは、他人を信じやすい、騙されやすい人物です。初心者では、聖書だけを読んでも、キリスト教を理解することはできません。そのため、初心者のための、解釈書があれば、多くの人々に、キリスト教が受け入れられるのです。聖書だけでキリスト教が理解できるのであれば、解釈書は必要ありません。しかし、聖書には奇跡的な事柄が書かれてあるので、大抵の人間であれば、そのような奇跡を信じることができないのです。
 「奇跡を信じない一般的な人々」とは、どのような人物なのでしょうか。それは、理性的な人間であると考えられます。奇跡を信じない人の多くは、理性的で、知性的な人物です。そのような、理性的な人々に、キリスト教の奇跡を納得させる必要があるのです。キリスト教が人々に受け入れられないのは、理性的な人間が、キリスト教の奇跡を批判するからです。キリスト教の問題点は、理性的人間を満足させない点にあります。その問題を、オリゲネスは解決しようと試みるのです。理性的人間を満足させる教説は、オリゲネスの時代では、ギリシャ哲学です。オリゲネスの時代の西洋では、ギリシャ哲学が人々の常識の基準であったのです。どのような人物も、ギリシャ哲学の教説には従う時代です。ギリシャ哲学が、一般人の判断の基準です。つまり、ギリシャ哲学がキリスト教を認めることになれば、キリスト教の教説が正しいものであるとして、人々から認められるのです。ギリシャ哲学によって、人々にキリスト教を理解させるのです。ギリシャ哲学は、理性的なのです。そのため、ギリシャ哲学は、理性的な人間を満足させるのです。
 オリゲネスから見れば、キリスト教はギリシャ哲学よりも、上位の価値を持つ教えです。しかし、キリスト教の教説だけを人々に主張しても、人々から理解を得ることができません。オリゲネスとしては、キリスト教の信仰さえあれば、ギリシャ哲学を勉強する必要はない、という態度です。ギリシャ哲学は、キリスト教の教説の、補助の地位にあるものです。主役はキリスト教であり、ギリシャ哲学は脇役です。世間の人々は、キリスト教よりも、ギリシャ哲学の方を大切に考えているので、本末転倒なのです。オリゲネスとしては、キリスト教の方が大事なのです。キリスト教さえあれば、ギリシャ哲学は重要ではない、という意見です。しかし、世間が認める教説は、キリスト教ではなく、ギリシャ哲学の方です。そこで、オリゲネスも、世間に合わせる必要があったのです。キリスト教だけを信仰する態度では、世間の理解を得ることができません。世間の常識は、ギリシャ哲学です。キリスト教は、世間の非常識です。非常識の教説を固く守る態度では、人々に受け入れられません。しかし、常識を踏まえた上での非常識な教説であれば、人々の賛同を得られる可能性があります。
 オリゲネスの時代の前までのキリスト教には、組織付けられた教説がありませんでした。それを、オリゲネスが、キリスト教の教説に対して、体系立てを行うのです。それは、ギリシャ哲学の導入であり、また、宗教における、理性的態度の表現です。キリスト教は、宗教です。宗教は、人間の信仰心が大切です。宗教を信仰する態度には、非理性的な部分があります。そのような性質の宗教の中に、理性を重視するギリシャ哲学を、オリゲネスは導入したのです。現代において考えれば、宗教を科学の視点から解明するような態度です。宗教に必要な態度は、信仰心の厚い態度です。その場合、理性的な能力は特に重要ではありません。理性の力は、主に、議論をする際に用いられます。宗教の教説に対して、議論をする機会は多くありません。そのため、宗教の多くは、人それぞれの好みによって、選択されるものです。しかし、オリゲネスの場合は、キリスト教の信仰に対して、熱心な気持ちを強く持っていたのです。オリゲネスは、キリスト教の熱心な信者であったのです。その、オリゲネスの熱心な気持ちが、キリスト教にギリシャ哲学を導入させたのです。本来の宗教の形であれば、議論は特に必要ないのです。それを、オリゲネスは、キリスト教に、わざわざ議論を持ち込むのです。それは、世間の人々に、広くキリスト教を理解させようという、オリゲネスの熱心な態度の表れです。オリゲネスは、キリスト教の教説の重要性を主張したのです。
 オリゲネスは、キリスト教の信者でした。そしてまた、オリゲネスは、ギリシャ哲学を理解していました。ギリシャ哲学は、理性的な教説です。ギリシャ哲学は、議論が主体です。そのギリシャ哲学を理解した上で、オリゲネスは、キリスト教の重要性を訴えるのです。現代において考えれば、それは、科学の時代の中で、宗教の重要性を訴えるような態度です。ギリシャ哲学には、科学的な態度があります。つまり、オリゲネスは、当時の科学の視点の上で、宗教の重要性を主張したのです。それは、キリスト教には、ギリシャ哲学を越える、何か重要な教えが含まれていたからです。オリゲネスには、理性的な態度がありました。オリゲネスが、キリスト教に対する、信仰心だけを持っていた場合では、オリゲネスの教説は、人々から受け入れられなかったと考えられます。つまり、宗教の信者には、人々の理解を得るために、理性的態度が求められるのです。








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