金曜日
西洋の倫理・道徳
オッカムのスコラ学について
金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、オッカムのスコラ学について、です。オッカムは、中世の西洋におけるスコラ学者として有名です。
オッカムの、より正しい呼び名は「オッカムのウィリアム」です。オッカムのウィリアムは、通称「オッカム」で認知されています。オッカムは、中世の西洋において、近世の西洋の考え方に近い学説を主張します。オッカムは、中世から近世への橋渡しとなる学説を発表したのです。中世の西洋は、キリスト教の神学が全盛の時代です。そして、近世の時代からは、科学の発達の著しい時代となります。オッカムのスコラ学は、中世的なキリスト教神学の内容を持ちながら、近世的な科学的態度の内容も見受けられます。中世の多くの学者は、神学的な内容に固執しています。オッカムの場合は、神学から距離を置く姿勢があります。オッカムは、独自の論理学を発表しています。中世の論理学は、神学と強く結び付いている場合が多くあります。オッカムの論理学は、神学から離れた態度があります。神学から離れた態度には、近世の科学的な考え方に近いものがあります。
オッカムの論理学で扱われている問題は、当時の時代を反映した内容です。オッカムの論理学では、人間の持つ知識の問題を考えています。人間は、言葉を使用します。そして、人間は、言葉によって知識を得るものです。オッカムの論理学では、言葉による知識を問題にしています。それは、事物と名前の関係を考えるものです。人間は、感覚を持っています。そして、感覚によって、人間は事物の知識を得るものです。しかし、人間は、感覚することのできない対象の知識を持っている場合があります。人間の知識には、感覚のできる知識と、感覚のできない知識とに分けられるのです。感覚のできない知識には、言葉による、名前が関わっています。人間は、感覚のできない、名前だけの知識を持っているのです。オッカムの論理学では、名辞と、名辞が示す対象とを分けて考えます。オッカムは、名辞を、事物そのものではないと主張します。名辞と、事物とは異なっているとオッカムは考えるのです。名辞は、名前に過ぎないものです。人間は、名前を感覚することはできません。名前の知識は、人間の精神的な作用による知識です。そして、感覚のできない名前の知識は、真理ではないとオッカムは考えます。オッカムのスコラ学では、普遍に対する問題を考えています。当時の時代では、普遍に対しての論争が学界の間で起こっていたのです。キリスト教の神学でも、普遍をどのように考えるのかが問題だったのです。オッカムのスコラ学には、近世の科学的な態度が見られるのですが、しかし、当時の時代の影響も受けています。
オッカムの主張では、普遍とは、名前であるに過ぎないものです。人間は、知識として、普遍的な知識を持っているものです。その場合の知識の、普遍性をオッカムは問題に考えるのです。普遍とは、何でしょうか。オッカムは、普遍を名前であると主張します。オッカムによれば、普遍的知識とは、名前だけの知識なのです。普遍とは、名辞なのです。人間は、それぞれの個別的な事物に対してであれば、感覚を通じて知識を得ることができます。普遍は、個別を超えているものです。個別を多く集めた上で、普遍が考えられます。個別的な事物であれば、確かに、その存在を認めることができます。しかし、個別を数多く集めた上で出現する、普遍の存在に対しては、疑問を考えることができるのです。普遍の存在は、個別的な事物の存在とは異なります。普遍の存在は、人間の日常生活とは関わり合いのない存在です。普遍の存在と、関わり合いを持ちながら日常生活を送る人間はいません。普遍は、名前だけで考えられる対象であるとオッカムは考えています。神学では、普遍の存在を、個別の事物以上の価値を持つ、真実の存在であるかのように考える場合があります。神学では、普遍の存在を重視することが多いのです。オッカムは、普遍の存在を重視しない考えです。オッカムは、当時の神学の普遍に対する考え方には、反対の立場をとっていたのです。
オッカムの論理学は、名辞の問題を取り扱っています。それは、言葉を研究する内容です。言葉を使用する際には、指示する言葉と、指示される事物とを考える必要があります。オッカムの論理学では、指示する言葉と、指示される事物との関係に、二種類を考えています。一つ目は、言葉が個別的事物を示すものです。そして二つ目は、言葉が言葉を指示するものです。科学の成立は、言葉が個別的事物を指示する場合において考えられます。オッカムの論理学には、科学の成立を主張する部分があります。言葉が言葉を指示するものでは、科学は成立しないとオッカムは主張します。言葉が言葉を指示する内容の問題を考える学問は、神学です。科学は、言葉が個別的事物を指示する内容です。つまり、オッカムの論理学は、神学から距離を置いていたのです。中世の時代の学界の中では、神学から離れることは難しいものです。論理学の場合も、中世では神学と結び付いていたのです。論理学が神学と結び付く原因は、普遍に対する考え方にあります。神学と結び付く論理学は、普遍を個別的事物のような真実存在であると考えます。オッカムは、普遍の存在を個別的事物の存在とは分けて考えます。そのようなオッカムの論理学から、近世につながる科学的態度を見ることができます。
オッカムのスコラ学では、普遍に対する問題が主要問題となっています。普遍を考えることによって、様々な疑問を思い浮かべることができるのです。それは、人間の持つ、知性と感覚の問題とも関わっています。人間が普遍を考えられるのは、人間に知性があるからです。中世の時代の学界では、人間の知性に対して、興味を持っていたのです。知性は、普遍性を考える人間の心です。そして、普遍に対する存在として、個別的事物があります。個別的事物は、人間の感覚によって存在を確かめることができます。感覚の能力の場合は、人間とは異なる動物も持っています。そのため、感覚の能力に対しては、中世の学界は特に興味を抱かなかったのです。中世の学界では、知性と普遍とが、学者の興味の対象であったのです。それは、中世の学界だけではなくて、古代の時代においても興味を抱かれていた対象でした。人間の感覚は、個別的な事物の知識を得ることに止まります。しかし、人間の知性は、普遍的な事柄の知識を得ることもできます。知性を持つ動物は、人間だけであると考えられます。人間だけが持つ能力に対しては、何か高級な感じを受けるものです。知性は高級な能力であると人々は考えるのです。そして、その知性は、普遍性の知識を得ることができます。そのため、普遍性に対しても、高級感を人間は抱くのです。個別的事物よりも、普遍性の方を人間は高級に思うのです。その高級感は、神秘的な雰囲気と結び付いています。知性と普遍性とは、神秘的なのです。その神秘的な雰囲気が、神学の形成に利用されるのです。神学では、感覚を超えた世界が重要であると考えられるのです。
オッカムの論理学には、個別的事物を重視するような態度があります。オッカムの論理学は、普遍を名前であるに過ぎないと考えます。そして、オッカムは、論理学の中に人間の感覚の問題を持ち込んでいます。それは、オッカムに現実世界を重視する態度があったからです。中世の時代の常識では、論理学は現実離れした、神の世界を考えるような学問として認知されていたものです。人間は、感覚の世界から離れると、神の世界を考えるようになります。神の世界を考えることの中には、現実逃避の姿勢も感じ取ることができます。知性を使って普遍を考えるだけの論理学では、現実世界に対応することができません。オッカムの論理学は、現実世界にも対応することができます。現実世界に対応するには、科学的態度を導入する必要があります。科学的態度を持って、オッカムは現実世界を生きるのです。
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