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木曜日

東洋の思想




人間の本性について


 木曜日は、東洋の思想の日です。今日の題は、人間の本性について、です。東洋では、人間の本性に対する考え方が様々にあります。
 人性の本質を考えることは重要なことです。人間の本性が明らかになれば、人間の理解に役立ちます。人間の本来の性質は、どのように考えられるのでしょうか。それは、善と悪の問題と結び付いています。人間の本性は善であるのか、それとも悪であるのかが、重要問題です。その他にも、人間の本性は、善でも悪でもない、という考え方が東洋にはあります。人間の本性は、決まっていないと考えるのです。決まった人性を考えないのです。東洋の学問の目的は、凡人が、聖人に近づくことにあります。凡人が、自分を鍛えるのです。その際に、凡人の本性が問題となることは当然のことです。凡人の本性を、どのように考えるのかによって、凡人たちが持つ、将来に対する期待感も異なります。凡人の将来には、見込みがあるのか、それとも、見込みが全然ないのか、判断されるべきです。また、一般の人々も、人間の本性に対しては、疑問を持っているものです。現実世界の中では、一般人であれば、人間関係に悩んでいるものです。現実世界が、善人ばかりであれば、人々は人間関係に悩むことはありません。しかし、現実世界は、善人ばかりが生きているのではありません。また、子供に対する考え方にも、人間の本性の問題は影響を与えます。子供は、善人として生まれて来たものであるのか、そうでないのか、問題となります。つまり、人間の本性の問題は、解決されるべき、重要問題なのです。人間の本性に対して持つ考え方によって、人間を見る目が異なります。それは、人間という存在に対する、信頼感の問題でもあります。
 まず、人間の本性を、善であると考える人物がいます。それは、性善説の主張です。また、人間の本性を悪であると考える、性悪説を主張する人物もいます。性善説と性悪説は、反対の内容の説です。しかし、性善説にも、性悪説にも、納得させられる説明があります。でたらめに、それらの主張が唱えられているのではありません。また、「人間は本性を持たない」という説を主張する人物もいます。人間は、善や悪などの性質を持って生まれて来たのではない、と考えるのです。その説では、人間の性質は、生まれた後で形成されると主張します。そしてまた、人間は、善と悪との性質を、両方備えて生まれて来たと主張する人物もいます。その説も、人間の生まれた後の教育を重視します。人間は、善と悪の性質を両方持っているので、悪の性質を増長させないように、人間に対して教育を行うべきであると、その説は考えます。その説は、人間には善と悪の本性が、両方あると考えるのです。その説は、「人間は何の本性も持たずに生まれて来た」と考える説とは異なります。「人間は、善と悪の本性を持たずに生まれて来た」と考える説と、「人間は善と悪の本性を両方持って生まれて来た」と考える説とは異なります。善と悪の性質の、両方を持って人間は生まれて来たのか、それとも、善と悪の性質を、両方とも持たずに生まれて来たのか、という部分が問題です。そしてまた、人間は善人として生まれて来た人と、凡人として生まれて来た人と、悪人として生まれて来た人の、三種類の人間がいると主張する人物もいます。その説は、最初から決まった性質を持って人間は生まれて来たと考える説です。つまり、その説は、人間の天性の素質を認める説です。その説に従えば、善人は、努力なしで善人となることができます。凡人には、善人となる可能性があります。そして、生まれつきの悪人には、改善の見込みがありません。悪人の素質を持って生まれた人物には、善人となる可能性がないのです。その説は、人間の性質の不平等の説です。人間の性質の不平等の説は、生まれた時点で、人間には各人に個性があると考えるのです。人間は、最初から個性を持って生まれて来たと考えるのです。そして、その各人の個性の違いによっては、将来の見込みの全然ない人間も考えられるのです。
 人間の本性に対する考え方にも、歴史があります。歴史が経過するに従って、人間の本性に対する、新しい考え方が出現します。その考え方は、人間の肉体的方面と、精神的方面とを考えます。その説では、人間の純粋な精神を、完全な善と考えます。人間であれば、平等に善の精神を持っていると考えるのです。しかし、その善の精神は、肉体と接触することで、悪い性質を持つようになると考えます。つまり、人間の精神を善と考え、そして、人間の肉体を悪と考えるわけです。人間は、精神だけではなく、肉体も持っている存在なのです。その部分に着目した説です。その説は、人間の精神の部分だけであれば、完全に善であると認めます。そして、悪の原因は、人間の肉体の部分に考えます。人間の肉体が、様々な欲望を抱くことで、悪が発生します。人間の肉体的な欲望が悪であると考えます。その説は、人間の本性は、誰もが善であると考えています。しかし、人間は肉体を持っているので、肉体から悪の性質が発生することになると主張します。その説は、一応、性善説の主張です。人間の誰もが、善の本性を持っていると考える説です。人間の生まれた時点での心に、差別を考えません。精神自体は、凡人も聖人も差別がありません。
 しかし、その説は、善と悪の、両方の性質を人間に認める説の一種であるとも考えられます。人間は、現実世界に肉体を持って生きている存在です。そのため、いかに人間の精神が完全に善であったとしても、現実世界では、人間は悪の本性を持っていることになります。人間の本性の悪の原因を肉体に求めれば、どのような人物も、悪の本性を持っていることになります。人間は、精神だけで現実世界に生きているのではありません。人間は、肉体を持って現実世界に生きています。人間が肉体を持って生きている以上は、悪の本性から人間は離れられません。つまり、新しい学説も、人間の本性に関する人々の悩みを完全に解決してはいないのです。その説は、精神と肉体との、分裂症状が起きています。それは、人間の本性に対する説として、性善説と性悪説を両方同時に主張したような説です。人間の本性は善であるけれども、しかし、常に肉体の悪と戦い続けなければ、人間は善人となることができないのです。性善説であるのならば、人間は自分の悪の本性と戦う必要がないように思えます。なぜ、人間の本性は善であるのにも関わらず、人間は、人間にある悪の本性と戦わなければならないのでしょうか。それは、人間は善でありながら、同時に悪であると考えるような、矛盾した説です。人間の本性の、悪の問題が解決されていません。現実世界の人間は、誰もが肉体を持っているので、生きている限り、人間は悪の本性から離れられないことになります。人間は、善の本性を持ちながら、一生涯、悪の本性と関わり続けなければなりません。人間は、自分の本性から、悪の存在を追放することができないのでしょうか。
 できれば、肉体も含めて、人間の全体の本性が善であることが望ましいことです。人間の肉体の本性も、善であることが理想です。つまり、完全な性善説が理想なのです。性善説の中に、性悪説を含めるような説では、不満が残ります。精神を善と考える代わりに、肉体を悪と考えるような説では、不満が解決されないのです。人間全体の本性を、善であると考える説を考案するべきです。肉体が悪であれば、人間の全員が悪の本性を持つことになります。人間の全員が悪の本性を持っているとすれば、人々は人間関係の悩みから救われることがありません。いくら精神的な訓練を積んだとしても、人間は肉体を持たなければ生きられないので、人間は悪の本性から離れることが不可能です。精神修養に限界があります。人間は、悪を有しながら生きることになります。しかし、精神の力があれば、肉体の欲望を押さえ込むことができます。人間は、精神によって肉体を支配することができます。精神の力が、肉体の力を超えるまでになれば、肉体は問題ではなくなります。








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