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月曜日

日本の思想




鍋島直茂という人物について


 月曜日は、日本の思想の日です。今日の題は、鍋島直茂(なおしげ)という人物について、です。鍋島直茂は、戦国時代から、江戸時代の初期まで生きた人物です。
 鍋島直茂は、戦国時代の日本において、有名な大名でした。鍋島直茂は、織田信長と、豊臣秀吉と、徳川家康とが、天下統一をかけて争っていた時代に活躍していた人物です。戦国時代の日本で、特に有名な人物は、天下を実際に統一できそうな人物です。鍋島直茂の場合は、天下を統一できるような大名ではありませんでした。そのため、鍋島直茂の名前を知る人は、現代の日本では少人数です。鍋島直茂は、学校の教科書には出ない名前であると思われます。しかし、戦国時代の日本においては、鍋島直茂は有名な大名として人々に知られていました。戦国時代の日本で有名な大名として名乗りを上げているのであれば、鍋島直茂という人物は、能力のよほど高い人物であったと考えられます。
 鍋島直茂という人物は、豊臣秀吉によれば、天下を取るに足らない人物です。豊臣秀吉から見れば、鍋島直茂は、天下人としての器を持っていないのです。天下を取るような人物は、大気と勇気と知恵とを、十分に持つ必要があると豊臣秀吉は話しています。鍋島直茂の場合は、勇気と知恵であれば、天下人としての必要条件を満たしていると、豊臣秀吉は評価しています。しかし、鍋島直茂には、大気がありません。大気がないので、鍋島直茂は天下を取ることができないのです。勇気と知恵を持つだけでは、天下を取れる大名であるとは、豊臣秀吉から評価されません。しかし、豊臣秀吉から、直接に鍋島直茂の名前が取り上げられているのです。鍋島直茂は、豊臣秀吉の目に付く大名であったのです。足らない要素があるものの、鍋島直茂は天下人としての条件として、三つの要素の内、二つの要素を満たしていたのです。二つの要素を満たしていたために、豊臣秀吉から、鍋島直茂は相手にされたのです。豊臣秀吉は、鍋島直茂の実力を認めていたのです。鍋島直茂は、豊臣秀吉の認定を受けていたのです。
 鍋島直茂は、勇気と知恵があったのです。しかし、鍋島直茂には、大気がなかった、ということです。それは、基本的な、人間としての大きさが足りなかったものであると考えられます。勇気と知恵だけでは、人間の基本的な器が小さいのです。つまり、勇気と知恵があるだけの人間は、真面目なだけがとりえの人間であると、評価されるのです。勇気と知恵がある人物は、実直で真面目な人物です。そのような性格は、人間にとって大切にすべき性質です。しかし、勇気と知恵の性質の上に、大気の性質を持てば、さらに、人間は偉大な人物となることができるのです。確かに、その通りです。人間は、勇気と知恵を大切にします。しかし、勇気と知恵の性質の上に、大気の性質を備えることができれば、人間は、さらに立派な人物となれるのです。人間は、大気を持つことを忘れてはならないのです。鍋島直茂は、大気を持つことを忘れていたのです。鍋島直茂には、手抜かりがあったのです。大気を持たない人物では、天下を取ることができません。鍋島直茂には、天下を取る気持ちがあったのでしょうか。鍋島直茂に、もしも天下を取る気持ちがあれば、鍋島直茂は、大気を持って、事に当たるべきでした。勇気と知恵があるだけの人間では、天下統一の事業を争うことができません。つまり、鍋島直茂は、野望を抱かなかったのです。天下を取るためには、鍋島直茂は大きな野望を抱かなければなりませんでした。大きな野望を抱くということが、大気を持つことです。
 人間は、勇気と、知恵と、大気を持つことが重要なのです。その場合、疑問に思われることは、勇気と大気の性質は、どのように異なっているのか、ということです。勇気と大気とは、同じような性質であると、一般的には思われています。勇気があれば、特に意識して大気を持つ必要はないものであると、一般の人々は思うのです。そのため、人々は大気を持つための努力を行わないのです。人間は、意識して、大気を持つ努力を行うべきです。大気を持つ努力を行わなければ、人間は、器量が小さくなってしまうのです。勇気と大気とは、似て非なるものです。
 勇気と大気は、気持ちの向かう先の遠近によって区別されます。近い物事に立ち向かう気持ちが、勇気です。そして、遠い物事に立ち向かう気持ちが、大気です。そのため、勇気を持つだけでは、小さい器量の人間となるのです。つまり、勇気は、自分と身近な物事に当たる気持ちなのです。身近な状況に対処する心持ちが、勇気です。勇気は、近視眼的なのです。視力にも、近視と遠視とを考えることができます。勇気の場合は、視力で例えると、近視に当たります。勇気は、自分と身近に関係している事柄に対してであれば、有効に働く能力です。しかし、自分の近くにある対象でなければ、勇気は発揮されないのです。つまり、何か対象が、自分に襲い掛かって来なければ、勇気を出すことができないのです。勇気は、自分と身近にある対象には敏感です。しかし、勇気は自分から離れた場所にある対象には鈍感なのです。遠くにある事物を、勇気は察知できないのです。勇気は、自分に近づいて来る事物にだけ反応するのです。勇気は、自分の身辺の危険状態を察知する能力なのです。そして、自分に危険を及ぼす可能性の高い事物に対して、立ち向かう心が、勇気なのです。勇気は、立ち向かう心です。しかし、勇気が立ち向かう対象は、自分の身近にある存在に対してなのです。つまり、勇気だけを持つ人物は、固いのです。それは、身近な事柄だけを相手にして、一歩一歩前進させる人物です。勇気だけを持つ人物は、手堅く物事を進める人物です。視野が狭いのです。しかし、充分に信頼できる人物であることは確かです。勇気のある人物は、信頼性があります。勇気のある人物には、確実性があります。
 大気の性質の場合は、自分とは遠くにある存在に対して立ち向かいます。大気が相手にする事柄は、自分の近くにある対象ではありません。自分の近くにはない事物に対して、大気は力を発揮します。大気と勇気とは異なります。大気が対象とする事物は、自分の身近には存在していないのです。例えば、天下を取ることです。天下を取ることは、自分の身近には存在していない事柄です。天下を取ることは、夢のような話です。それは、自分とは遠くにある事柄です。天下を取ることに対する思いは、勇気の問題ではありません。勇気では、非現実的な話に対しては、有効な効力を発揮しません。勇気は、現実的で、身近な対象を相手にすることが得意です。夢のような話に対しては、勇気では相手にすることが難しいのです。夢のような話を相手にする心が、大気です。大気は、非現実的で、自分とは遠くにあるような事物を相手にする心です。そのため、大気だけある人物には、信頼性と確実性を求められないことがあるわけです。大気の心の対象は、非現実的なのです。大気の対象を、信頼することは難しいのです。大気は、自分とは遠くにあったり、自分よりも大きな事柄を相手にします。大気は、現実よりも、大きくて、遠くにある存在を目指すのです。不確実な対象が相手です。勇気の対象は、自分と身近にある事物であるので、確実です。大気の場合は、自分の身近にはない事物を対象にします。鍋島直茂の場合は、大気を持っていなかったので、天下人としての条件を満たしていませんでした。大気の心は、非常識に向かう心です。大気は、常識的な物事を問題にしません。常識人として生きる人々であれば、大気の心を重視しません。鍋島直茂は、常識人であったのかもしれません。常識人であるため、勇気と知恵を持って、鍋島直茂は真面目に生きていたのです。天下を取ることは、非常識なことです。人間が非常識な事業を行う場合には、大気が必要です。非常識な生き方を好まない人間であっても、最低限、勇気と知恵は必要です。








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