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水曜日

東洋の倫理・道徳




孟子の「不忍人之心」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳について考えます。今日は、孟子の「不忍人之心」について、です。その言葉は、人間の、残忍ではない心、のことです。孟子は、そのような、「不忍人之心」は、人間であれば、皆が持っているものだ、と主張するのです。その理由として、孟子は、赤ん坊が井戸に落ちそうになれば、誰もが、世間的な名声のためではなく、驚いたり、かわいそうだと思うからだ、と考えているのです。そして孟子は、「不忍人之心」がないような人間は、人間ではない、とも説いています。
 それは、今の日本では、「赤ちゃんポスト」の問題にも考えられるかもしれません。誰でも、赤ちゃんのことをかわいそうに思います。確かにそうです。名声のために、人々の賞賛を得たいために、赤ん坊をかわいそうに思っているのではないわけです。確かに、「かわいそう」と思う部分についてだけは、孟子の言うとおりです。その部分だけは、孟子の言うとおりに、思うものは思うのです。そして、「できれば赤ちゃんを助けたい」と、そこまでは確かに思うことは思うのです。そのように思うことについては、確かに、世間の人々、周囲の人たちの名声を得るためだとか、人々の非難の声を浴びるのが怖いからだというような、他人を気にする結果、思うことではないのです。確かに、「赤ちゃんかわいそう、助けたい」と、思うことは、自分一人だけで思うことであり、他人の協力を得て思う、だとか、他人からの圧力によって思う、とかいうことではないものです。そのように思う心のない人については、孟子の言うとおりに、「人間ではない」と、確かに、思えるものです。残忍な心を持つ人は人間ではないと思い、そして、残忍でない心を持つ人こそ人間であると、孟子のように、思えるわけです。人々の全員が、その孟子の主張に同意するものだろうと思われます。赤ん坊が井戸に落ちてしまいそうな時は、人間誰しも、「かわいそう、助けたい」と思うものです。その場に自分以外の他人が一人も居合わせなくとも思うものです。周囲に他人がいる場合には思うことはできたとしても、自分一人だけがその場にいる場合には思うことはできない、というものではありません。「赤ちゃんが危ない」と、思うところ、びっくり驚くところまでは、誰もが同じものだと思われます。
 しかし問題は、どのような行動を取るべきか、という所にあると思われます。私は、「赤ちゃんがかわいそう、助けたい」と思えないような人間は、人間でない、という部分までは、確かにそのとおりだと思います。その部分までは認めるのです。しかし、「赤ちゃんが助けられない人間は人間ではない」という主張にまで発展するのなら、問題があると思われるのです。孟子はどのように考えていたのでしょうか。私は詳しくは分かりません。孟子は、「赤ちゃんが助けられない人間は人間ではない」と考えていたのかもしれません。孟子は人間の心だけの問題について語っていたのでしょうか。それとも、人間の心だけでなく、行動に関しても、含めて語っていたのでしょうか。孟子の考えていた、「人間であるための条件」とは、どのようなものだったのでしょうか。
 「赤ちゃんが危ない、かわいそう、助けたい」と、心の中で思うことができれば、それだけで孟子はその人を、人間であると認めるものなのでしょうか。それとも、赤ちゃんを助けるか、もしくは赤ちゃんを助けようとする、行動を取ることができなければ、孟子はその人を、人間であるとは認めないものなのでしょうか。「赤ちゃんを助けたい」と、思えることができただけで、孟子はその人を人間であると認めるのか、もしくは、赤ちゃんを助ける行動にまで移せなければ孟子はその人を人間であるとは認めないのか、どちらなのでしょうか。私には、それが人々の不安の種となるように思えます。なぜならば、孟子から、人間であると認められるのか、それとも、人間であるとは認められないのか、では、大きな差があるからです。孟子から、「あなたは人間ではない」と言われたら、私を含めた大勢の人々が、落ち込むことになるであろうからです。いったい、どちらなのでしょうか。「赤ちゃんを助けたい」と、思うことができれば、それだけで孟子は人を人間として認めるのでしょうか。それとも、思うだけではだめで、行動にまで移せなければ、孟子は人を人間であるとは認めないのでしょうか。
 それは孟子の「不忍人之心」の部分を少し読んでも、書いていないことなのです。その部分には、「不忍人之心」のない人は、人間ではないと、書いてある程度なのです。そのため、孟子は、「心さえあれば人間としての条件は満たしている」と考えていたのかもしれません。しかし、書いていないから、という理由で、「孟子は人間に行動までも要求していない」ということを決め付けることはできません。このことは、一つの大きな問題であると思います。なぜなら、現代日本社会では、「赤ちゃんポスト」の問題が身近にあるからです。もし、赤ちゃんを助ける行動をとれない人は人間ではない、ということを孟子が考えていたとしたら、日本の中の大勢の人が人間ではない、ということになりそうです。
 そしてまた、これは赤ちゃんだけの問題ではありません。他の様々な問題についても当てはめることができるものです。つまり、「かわいそう」と思いながら、遠くで見ているだけの人は、人間であるかどうか、という問題です。思うだけで人間になれるのか、行動しなければ人間になれないのか、ということです。しかしまた、逆の事についても考えることができます。今までの場合は、思うけれども行動ができない場合でした。しかし、思わないけれども、行動はできる、という場合はどうなのか、と考えるのです。人間らしい心は全然持っていないのだけれども、人間らしい行動はできる、という人間です。そのような人間は、「不忍人之心」を持っていないので、孟子はその人を人間であるとは認めないのでしょうか。つまり、人の評判を気にして赤ん坊を助けようとする人のことです。しかし、もし孟子がそのような人を人間として認めなくとも、赤ん坊は助けられたのだからよいではないか、とも思えます。赤ん坊を、ただ助けるだけではだめだ、ということでしょうか。








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