火曜日
西洋の思想
モンテスキューの「政体原理」について
火曜日は、西洋の思想の日です。今日の題は、モンテスキューの「政体原理」について、です。モンテスキューは、『法の精神』の著書で有名です。
モンテスキューは、政体の維持存続に対して、政体の「原理」の重要性を強調します。政体の維持存続は、政体の「原理」に左右されます。モンテスキューは、政体の原理を、情念であると考えます。人々の情念が、政体を動かすのです。モンテスキューは政体に関して、本性と原理を考えています。政体の本性は、主権の在り方が問題となります。政体には、君主政や、共和政や、専制政などがあります。それぞれの政体に、本性と原理とを考えることができます。
君主政の本性とは、主権者が君主のみであることです。共和政の本性は、主権者が国民全員であることです。そして、専制政の本性は、一人の人物が不規則に支配することです。政体の本性には、主権者の構成が考えられているのです。政体の本性では、法律によって定められた、権利の規則が問題です。政体の本性は、社会的に定められた規則であると考えられます。政体の本性は、人々の間での決まり事の問題です。それは、世間の約束事です。つまり、表面的な制度上のルールです。政体の本性は、形式的に人間同士が作り出した、規則に関わっています。そして、モンテスキューは、政体の本性とは別に、政体の「原理」を考えています。政体の原理は、国民の権利の規則が問題となるのではありません。政体の原理は、定められた法律の問題ではありません。「法律で決まっていること」が政体の原理ではありません。政体の本性は、「法律で決まっていること」が問題となります。政体の原理は、法律制度ではなくて、現実の国民の人々が問題となります。
つまり、政体の原理は、生きている人間であると考えられるのです。政体の本性は、生きている人間の現実とは無関係であっても存続します。政体の本性は、生きた人間から離れた、諸制度の規則の問題なのです。政体の原理の場合は、国の諸制度の中で、実際に生きている人間が問題となります。モンテスキューは、政体の維持存続のためには、政体の本性よりも、政体の原理の方を重視して考えます。つまり、形式的な制度の面は、重要ではないとモンテスキューは考えるのです。君主政と共和政との、どちらの制度を選ぶべきか、という問題は、重要ではないのです。重要なことは、制度よりも、実際に生きている人間の方なのです。君主政の制度の中でも、共和政の制度の中でも、人間は幸福に生きることが可能なのです。どのような制度の中でも、人々は、社会的生活を営みながら、幸福に生きられるのです。つまり、問題は制度ではなく、その制度に従う人間なのです。モンテスキューは、政体の維持存続に関しては、政体の原理を重視します。
モンテスキューの考える政体の原理とは、人間の情念です。それは、実際に生きている人々の感情です。政体の条件にも、制度と、制度に従う人間とが考えられるのです。制度だけでは、実際的な政体は成立しません。実際的な政体の維持存続は、その政体の下で生きる、人間に左右されるのです。政体に関する問題は、制度よりも、実際の人間の方が重要問題となるわけです。政体を動かしているものは、制度ではないのです。政体の存続に対しては、人間が支配権を握っているのです。制度は、全て人間の作り出したことです。そのため、モンテスキューは、制度よりも、人間の情念を重視して考えるのです。制度は固定的なものではありません。制度は、人間の手によって変化させることのできるものです。確かに、制度は人間を支配しています。しかしまた、人間も、制度を支配しています。制度と人間とは、互いに支配し合っているわけです。モンテスキューは、制度よりも、生きた人間の情念の方が、政体の存続に対して、大きな影響力を与えると考えます。
制度は、制度に従う人間がいなければ、無意味なものです。制度に従う人間は、情念を持って従っているのです。情念がなければ、人間は制度には従いません。つまり、人間に情念がなければ、制度は無意味なものです。どのような制度を、いくら作っても、実際的な効力がありません。それは、誰も従うことのない法律を作ることです。法律に従う人は、情念を持って従っています。そしてまた、人間は情念を持って、法律を作り出します。人間は、情念によって、制度を動かすことができます。確かに、制度からも人間の情念は動かされます。制度にも情念にも、受動的な面と、能動的な面とがあるわけです。しかし、人間の情念の方が、能動的な力としては、常に優位な立場にあると考えられるのです。人間の情念は、制度に動かされることよりも、制度を動かすことの方が多いのです。制度の方が、人間に支配されるのです。制度自体には、動きがないのです。制度を運営するのは、常に人間です。制度は、人間の道具のようなものです。制度は、人間に対して、従属的な地位にあると考えられるのです。政体の存続に関しては、制度よりも、人間が主体なのです。人間の働きによって、政体が存続されるのです。人間の働きかけの力が、何より重要であると考えられるのです。制度の存続も、人間の情念によって支えられているのが現実です。政体の存続は、制度が主役ではないのです。政体は、人間の情念によって、維持され、支えられているわけです。つまり、支持される制度が偉いのか、それとも支持する人々が偉いのか、どちらであるのか、という問題です。モンテスキューは、支持される制度よりも、支持する人々の方を、政体の存続には欠かすことのできない、偉い存在であると考えます。
そのため、政体を維持存続させるためには、国民の情念を大切に考える必要があります。政体の存続に関しては、政体の本性だけではなくて、政体の原理も考えなければなりません。制度だけを整備すれば、政体が永続するのではありません。政体は、人間の情念の状態によって、左右されるのです。政体を考える上では、人間の情念の存在を欠かすことはできません。モンテスキューによれば、情念こそが政体の存続の上では第一に考えるべきものです。それを考えないのであれば、中身の入っていない政体理論となります。政体の制度だけの理論では、現実から離れた、空理空論の理論に陥るのです。政体は、人間の情念によって動かされているのです。共和政の場合も、君主政の場合も、国民の人々の情念によって盛衰があるわけです。つまり、制度への支持率が重要であるということです。制度自体よりも、制度を支持する人々の存在が重要です。人々が制度の規則を守らなければ、制度が崩壊します。崩壊した制度が悪いのか、それとも崩壊させた人間が悪いのか、という問題です。人間が制度を作り、人間が制度を壊します。政体は、人間が主体となって存続させるのです。政体の問題は、制度よりも、人間の問題です。人間の感情で、政体の存続が左右されるのです。それは、人々の協力がなければ、国の政体の維持存続が危ぶまれる、ということです。
つまり、「国民の皆様のご理解とご協力のほど、よろしくお願い申し上げます」ということです。国民の人々の、理解と協力の上で、国の政体が存続されるのです。例えば、国民は、政体への反抗として、デモ行為を起こすことができます。デモ行為は、法律違反である場合があります。しかし、法律違反の行為であっても、人間にできないことはありません。法律に従うことも、法律に違反することも、人間には可能です。つまり、人間から離れた、政体理論だけを考えても、現実的な話ではないのです。人間の情念は、理論通りには事が運びません。政体の問題には、人間の情念の問題があったのです。それは、心の問題です。法律をいかに巧妙に作り出しても、人間の情念を完全に押さえ込むことはできません。人間の情念は不可解なものです。情念は、制度の予想範囲を超えた働きをする場合もあります。情念は、理論を打ち破ることがあります。情念の、予想以上の働きを人々は考えるべきです。
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