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月曜日

日本の思想




桃太郎について


 月曜日は日本の思想です。本日の題は、「桃太郎について」です。桃太郎という話は、日本の古くから伝わる傑作です。桃太郎ほどの作品を考えるのは難しいものです。日本の先祖の偉い人が誰か考え出したのでしょう。
 さて、まず、「おじいさんとおばあさん」です。おじいさんとおばあさんは、介護なしで、働いているわけです。寝たきりではないのです。体が丈夫だったということです。大自然の中で、若いころから体をよく動かしていたので、年をとっても丈夫で働けるわけです。子供による介護などは必要ないのです。ホームヘルパーの助けもいらないのです。息子や娘の手助けがなければ日常生活もできない、などということはありません。日本人のご先祖様は体が丈夫だったということです。年をとっても健康で働ける、ということは、我々の願いでもあります。
 そして、桃太郎は、桃から生まれます。なぜ、桃から生まれたのでしょうか。それは、小さい子供に聞かせる話だから、「子供というのはコウノトリが運んで来るものだよ」と教えるような、大人のごまかしだということでしょうか。恋愛だとか、夫婦だとか、小さい子供にはよく分からないから、子供がおじいさんとおばあさんの所に来た理由、背景などについては、省略しようという魂胆でしょうか。その上で、「子供というのは、男から生まれるものではなくて、女から生まれるものだよ」ということを、「桃」をたとえにして、子供に遠まわしに教えているのかもしれません。まずは、「子供は桃から生まれるものだ」ということを子供に教えておけば、その子供が、将来、「子供は女から生まれる」ということを知っても、あまり驚かなくて済むかもしれないのです。
 それから、桃太郎は、成長すると、鬼退治に出かけます。桃太郎の鬼退治です。それは、どきどきするものです。どのような、どきどきかというと、警察が、暴力団を壊滅させようとして、暴力団のアジトに乗り込もうとするような、どきどき感です。桃太郎は、警察であり、鬼は、暴力団ということです。今の日本社会でも、警察は、暴力団を町から追放しようと活動しています。そのような、「本当に、警察は暴力団を追放できるのかなあ」というどきどきです。スリルがあります。桃太郎という話には、スリルがあるのです。その、危ない魅力に、子供たちは引き込まれるのです。桃太郎は戦いに出るのです。鬼たちとの戦いです。桃太郎は、この先どうなってしまうの、という不安が生まれるのです。しかし、不安ばかり抱いていても、未来はありません。子供たちにも、「勇気」を教えなければなりません。勇気を出しなさい、ということです。このままの生活では、鬼たちの悪さのやり放題を黙って見過ごすことになってしまうのです。鬼たちは怖いけど、鬼たちの悪さに対しては、黙っているわけにはいかないのです。ここは、勇気を出して、鬼退治です。確かに、怖い。不安だ。恐怖だ。鬼退治に行って、逆に、返り討ちに遭うかもしれない。しかし、そんな、恐怖を、乗り越えて、勇気と、希望を持って、実行に移しなさい、ということです。
 そして、桃太郎は、きび団子を持って鬼退治に出かけます。きび団子です。桃太郎は、遠足気分で鬼退治に行くつもりなのでしょうか。レジャー、ハイキングのついでに鬼退治もしましょう、ということでしょうか。鬼退治に行くのに、きび団子しか持って行かないのは、気軽な気持ちの表れなのか、もしくは、あきらめの気持ちなのでしょうか。鬼退治に行くのなら、もっと、完全武装で挑むとか、兵の策略を立てるとか、準備をしないのでしょうか。勝算はあるのでしょうか。本当に、鬼を倒しに行く気持ちはあるのでしょうか。きび団子だけで、アメリカ軍と戦うようなものです。神風が吹くから大丈夫だということでしょうか。まぐれで勝とうとしているのでしょうか。「無理かもしれないけど、もしかしたら、何とかなるかもしれない」という気持ちでしょうか。桃太郎の無謀な挑戦です。
 それから、桃太郎は動物たちを仲間にします。この段階になると、もう、桃太郎の鬼退治は、本気ではないのだな、ということが分かるようです。つまり、桃太郎の考える「鬼退治」と、我々の考える「鬼退治」とは、異なるものだということです。我々の考える「鬼退治」というものは、つまり、悪い鬼たちの中の、特にひどい者を、殺すか、半殺しにするか、という事です。しかし、桃太郎の意図する「鬼退治」は、どうも、我々の考える「鬼退治」とは、違うのではないかと思われるのです。現代の日本人の表現では、桃太郎の「鬼退治」は、「鬼に文句を言いに行く」と、言い換えたほうがよいのかもしれません。つまり、桃太郎の鬼退治というのは、悪い鬼たちを一人残らず殺しに行くようなものではなくて、悪さをする鬼たちに、「文句を言いに行く」ような気分だったのかもしれません。桃太郎は、命がけで鬼たちと殺し合いをするような意図はなかったのではないでしょうか。だからつまり、そのことが、子供に聞かせる話だということでしょう。そこに、子供たちに伝えたいことがあるのです。悪い鬼たちとも、分かり合えるのだ、ということです。表面的には悪さをしているようでも、きっと、その鬼たちにも良心があって、桃太郎が話せば分かってくれるのだよ、ということを、遠まわしに教えているのかもしれません。
 兵力として見てみれば、猿、きじ、犬では、桃太郎は死にに行くようなものです。桃太郎も、そしてきび団子を渡しただけで鬼退治に行かせるおじいさん、おばあさんも、正気の沙汰ではないようです。自分の命を軽々しく扱ってはならないのではないでしょうか。それからまた、猿、きじ、犬も、きびだんごを食べさせて貰ったからといって、よく鬼退治についていくものです。きび団子で鬼退治に行かせられるのは、労働者の過酷な搾取のようなものです。暴力団に立ち向かう警察だって、それなりの給料を貰っているわけではないでしょうか。そして与えられるのは、給料だけ、というのではなく、ヘルメットだとか、防弾チョッキだとか、銃だとか、武装兵器が与えられるわけです。それでやっと警察も、暴力団に立ち向かえるわけです。それなのに、きび団子を食べさせられて、「私と一緒に鬼退治に行きませんか」と言われて、「はい、分かりました」と答えるのは、むしろ、誘拐のようなことです。桃太郎は、猿、きじ、犬を誘拐したようなものです。「アイスクリームあげるから、おじさんの車に乗ろうよ」というような事です。
 しかし、猿、きじ、犬も、鬼退治の際には、よく働いてくれたわけであるので、「鬼退治」という、事の重大性はよく理解していたのかもしれません。「鬼退治って何だろう、よく分からないけど、この人について行こう」ということではなかったわけです。猿、きじ、犬も、賢い動物だったわけです。だからつまり、猿、きじ、犬も、日頃から、鬼たちの悪さの加減には、怒りを抱いていたわけです。鬼たちの悪いうわさを日頃から聞いていて、「いい加減にしろよ」と、かなりうっぷんがたまっていたわけです。猿、きじ、犬も、悪い鬼たちに対して、むしゃくしゃしていたわけです。「こうなったら、あの、鬼のアジトになっている島へ行って、鬼たちをけちらしてやりたいなあ」と思っていたわけですが、「でも、自分一人で行くのは気が引けるなあ、誰か、自分と同じように考えている仲間はいないのかなあ」と思っていたわけです。それがある日、桃太郎さんが現れたということです。むしろ、きび団子なんか、いらなかったのです。桃太郎さんが、「鬼退治へ行こう」と言ってくれたら、もう、その言葉だけで、仲間になるというわけです。きび団子も、防弾チョッキも必要ないのです。自分をむしゃくしゃさせる、あの悪い鬼たちに、正義の拳を叩きつけられれば、それで充分だというわけです。「別に、死ぬことなんか恐れてはいないんだよ」ということです。
 そのように考えてみると、きび団子だけを持って鬼退治に行く桃太郎一行は、大変危険な集団となるのかもしれません。「死の覚悟」ができた人間ほど、恐ろしい力を出すものですから。火事場の馬鹿力を出すのです。猿、きじ、犬も、日頃から、悪い鬼たちに対して怒りを感じていたということです。でなければ、きび団子を貰っただけで、鬼退治になんか行きません。桃太郎も、猿、きじ、犬も、大きな理想を抱いていたわけです。悪い鬼たちのいない、平和な世の中を実現させようという理想です。その夢に向かって、桃太郎も、猿、きじ、犬も、チャレンジしていたというわけです。








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