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土曜日

現代の思想




メルロ=ポンティの「身体」について


 土曜日は、現代の思想の日です。今日は、メルロ=ポンティの「身体」について考えます。現代の思想の歴史の中で、メルロ=ポンティは有名な人物です。
 メルロ=ポンティは、人間の「身体」を重視します。なぜなら、メルロ=ポンティは、人間の身体を、自分の学説の重要な位置に置いているからです。メルロ=ポンティは、「身体」を、どのように考えるのでしょうか。
 メルロ=ポンティは、人間というものは、世界の中に、身体を持って存在するものと考えるのです。そのため、メルロ=ポンティは、人間の身体を軽視するようなことがあってはならない、と主張するのです。メルロ=ポンティよりも以前の学説では、人間の「身体」を軽視するような発言が多かったということです。メルロ=ポンティ以前の学説の伝統では、まず、人間の「身体」と、人間の「精神」とを区別して考えます。そして、人間の「身体」を重視することはなくて、人間の「精神」の方を尊重するのです。伝統的な学説は、人間の身体よりも、人間の精神の方を尊重するということです。メルロ=ポンティは、人間の身体にも、貴重な価値があると主張するのです。
 しかし、メルロ=ポンティは、人間の身体だけを特別扱いする考え方ではありません。「人間は身体さえあれば、精神などは必要ない」と考えるような説ではありません。メルロ=ポンティは、人間の身体も精神も、両方大切に扱います。身体だけを重視して、精神を軽視するのではありません。メルロ=ポンティは、伝統的な学説の価値を、全部否定する考えではありません。ただ、伝統的な学説の考え方が、「精神」に偏っていたということです。伝統的な学説は、「精神偏重主義」だったのです。メルロ=ポンティは、そのような、偏った考え方を正そうとするのです。
 そのため、今度は、メルロ=ポンティの学説が偏った考え方にならないように、気を付けなければなりません。偏った考え方を指摘する、その本人が、偏った考え方を持っていれば、説得力はありません。伝統的な学説が「精神」に偏っていたとしても、今度は自分の学説が、「身体」に偏ってしまうような事態は避けなければなりません。メルロ=ポンティは、「精神」にも、「身体」にも、どちらにも偏らないような学説を、どのように主張するのでしょうか。
 メルロ=ポンティは、人間の精神も身体も、どちらも重視します。人間の「身体」というものは、「生命」のあるものです。メルロ=ポンティは、「生命」という価値を、一つの価値あるものとして位置付けします。伝統的な学説では、「物質」と「精神」との、二つの価値だけを考えていたのです。そして、「物質」と「精神」との、二つだけを考えて、それらを対立させる考えであったのです。しかし、メルロ=ポンティは、新しく、「生命」という価値を設定するのです。「物質」と、「精神」と、そして、「生命」です。物事を、「物質」か「精神」か、どちらかだけで考えるような、伝統的な考え方には、異議がある、ということです。そして、メルロ=ポンティは、「物質」と、「精神」との間に、「生命」という項目を付け加えるのです。メルロ=ポンティは、世界を、「物質」、「生命」、「精神」の三段階層で考えるのです。世界は三段階層であるということです。そして、メルロ=ポンティは、物質も精神も、どちらも大切にするのです。メルロ=ポンティは偏った考え方ではない、ということです。物質世界の階層も、精神世界の階層も、そして生命世界の階層も、それぞれに重要であると考えるのです。そして、メルロ=ポンティの考える、人間の「身体」とは、「生命」のある存在です。人間の身体は生命を持っているのです。その点を考えなければなりません。
 確かに、人間の「身体」は、「精神」ではないのかもしれません。しかし、人間の「身体」は、「物質」とは区別して考えるべきなのです。人間の身体を、物質と同じように考えてはならないと、メルロ=ポンティは主張するのです。人間の身体を、精神ではないから、という理由で、物質の扱いをするべきではない、ということです。人間の身体は、精神でも、物質でもなく、「生命」であるということです。伝統的な学説は、「生命」という存在を、見落としていたわけです。伝統的な学説は、精神か物質か、という、二元論で考えていたのです。そのため、人間の肉体を、精神ではないから、という理由で、物質であると考えたのです。つまり、伝統的な学説は、両極端な考え方であったのです。メルロ=ポンティは、そのような両極端な考え方ではなくて、世界を三段階層に考えるのです。「物質」、「生命」、「精神」です。そして、人間の「身体」というものは、「生命」に該当するのです。
 つまり、世界の中で生きる人間を、より正確に、現実的に考えるためには、人間の「身体」を重視しなければならないのです。人間は、世界の中で、「身体」を持って生きているのです。人間は、物質としての存在ではありません。しかし、人間は世界の中で、精神だけで生きているのではない、ということです。それは非現実的な話なのです。人間は、世界の中で、必ず身体を持って生きているのです。そのため、メルロ=ポンティは、人間の身体を重視するのです。人間は現実世界の中で、身体を持って生活をしているのです。現実世界の中では、精神だけでは生活できない、ということです。
 そして、メルロ=ポンティは、そのような考え方によって、主観と客観との対立も乗り越えようとします。メルロ=ポンティの考えでは、身体が意識なのです。人間は世界の中で、身体を持って生きているのが現実です。そして、その人間の身体こそが、意識よりも根本的な存在なのです。人間の意識、精神よりも前に、人間の身体が存在するのです。そうであるのならば、人間の身体が、意識であるとも見なされるのです。それは、「身体で理解する」とか、「身体で覚える」というようなことです。つまり、身体が主観となっている、という考えです。伝統的な考え方では、身体は物質であるので、身体を主観であると考えるようなことはできません。しかし、メルロ=ポンティは、身体が主観となって、「身体で知る」というようなことが可能であると考えます。そしてまた、身体は、客観である存在とも考えられます。世界の中に存在する身体は、他人の主観からの客観として扱われたりします。つまり、身体が、主観であると同時に、客観でもあると考えられたりするのです。そのような、主観であり、また客観でもある「身体」は、他者との関係において、特に重要な考え方となります。それはつまり、他者との共存の考え方です。自分は常に主観であり、そして他人は常に自分の客観であり、また、自分は常に他人からの客観である、という考え方が、克服されるのかもしれない、という考え方です。








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