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水曜日

東洋の倫理・道徳




名家と詭弁家について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、名家と詭弁家について、です。古代の中国には、諸子百家と呼ばれる学派が、様々に存在していました。名家と詭弁家も、諸子百家の中の一つの学派です。名家と詭弁家とは、近い関係にあります。
 名家の開祖として考えられるのが、伊文子という人物です。伊文子は、正しく名前を付けるべきことを、主張します。伊文子は、物を正しく名付けることに対して、強いこだわりがあるのです。物とは、実質のことです。名前と実質とは、区別されなければなりません。名前と中身とは、異なるのです。名家の開祖の伊文子の主張には、教えられるものが多くあります。しかし、名家と教説の近い学派として、詭弁家が存在するのです。詭弁家が、名家の学派の中に分類されるとも、世間では考えられています。名家の中に、詭弁家の学派も混在しているのです。名家の開祖の、伊文子の主張は立派なものです。しかし、名家は一般的に、詭弁術を操作する学派であると、広く認知されているのです。詭弁術は、相手を騙す術です。詭弁術は、真実を、真実ではないと言い張る術です。そのため、詭弁家の評価は低いものです。名家の開祖の主張は立派であったのです。しかし、名家の学派は、詭弁家の学派であると、世間に認められるようになってしまったのです。実質と名前を一致させることを、名家は追求するはずです。しかし、名家は、名前だけの操作を追求する学派となったのです。名家の行う研究は、論理学の研究に近いものがあります。
 つまり、内容が伴っていないのにも関わらず、言葉だけで事物を正当化させるのです。名家の開祖は、名前と実質を一致させるべきであると、強く主張していました。しかし、名家は、開祖の主張とは裏腹に、内容の伴わない、言葉だけの世界を作り出す学派となったのです。名家は、現実世界とは異なる、言葉だけの、架空の世界を作り出すのです。つまり、名家は、嘘の世界を考え出すのです。しかし、名家は、「嘘ではない」と言い張るのです。名家は、自分が嘘をついているとは、絶対に認めないのです。名家は、真実を追究するよりも、いかに自分の嘘の主張を正当化させるのかを追求するのです。名家には、自分の言う嘘と言い訳を、貫き通す態度があるのです。つまり、自分が悪かったことを、絶対に認めないのです。名家の態度は、強情であるのかもしれません。自分の一度言ったことを、言い直さないのです。名家は、自分の過ちを、認めない態度です。そしてまた、名家は世間の常識に対しても、堂々と反抗するのです。名家にとっては、現実世界がどのような状態にあったとしても、関係のないことです。名家には、現実世界は問題ではありません。名家は、現実世界の事実を相手にしないのです。
 名家にとって問題となる事柄は、言葉だけの世界です。名家の関心は、現実世界を超えているのです。名家にとっては、もはや現実世界の状態は、問題ではないのです。名家の武器は、言葉です。言葉さえあれば、名家は現実世界を超えることができるのです。名家は、現実逃避の態度であるのかもしれません。言葉と言葉の間に、誤りさえなければ、いかに現実とかけ離れた主張であっても、名家には認められるのです。言葉だけで作り上げた世界であっても、つじつまさえ合えば、現実世界とは関わりなく、正しい主張であると、名家は考えるのです。つまり、名家は、現実世界とは無関係の世界の真理を追求する学派なのです。確かに、名家は現実世界に対しては、否定的な態度であると考えられるのかもしれません。しかし、名家は、積極的な態度で、現実世界から超え出ようと考えていたのかもしれません。名家は、小さな現実世界のしがらみに縛られた日常生活から、抜け出したいと考えていたのかもしれません。
 名家の詭弁術は、技術として見れば、人間の暮らしに役立つ技術であると考えられるのかもしれません。詭弁術の、技術の面だけに目を向けるのです。つまり、名家の学術研究にも、価値があると考えるのです。技術を悪い方向に使えば、悪い結果が起こります。しかし、名家の詭弁術の技術を、高度な技術にまで高めれば、人間の学問に進歩をもたらします。詭弁術の研究を開始した最初の動機が、現実逃避の態度であっても、そのまま、詭弁術の研究意欲を持続させるのです。そして、積極的な姿勢で詭弁術研究の道を邁進するのです。現実否定の態度から、積極的な態度が引き出されるのです。そして、その積極的な態度から、技術の向上が結果として出るのです。そして、研究した技術が、人々の現実世界の生活を改善させるのです。つまり、現実に対する不満の気持ちにも、価値があるのです。不満の気持ちを、価値ある方向へ向けるのです。不満の気持ちから、高度な技術を研究する道が開かれるのかもしれないのです。詭弁術も、追求すれば、奥深いものがあると考えられます。詭弁術の否定的な面にとらわれず、技術としての価値を認めることです。そして、技術を悪用するのではなく、人々の生活の改善に対して有効に技術を使用するのです。
 つまり、詭弁術の研究によって、論理学を発達させることができるのかもしれないのです。論理学を勉強して、人を騙すことに使用してはなりません。論理学によって、現実世界を超えるのです。詭弁術を深く研究すれば、思考能力が上がります。思考能力が高ければ、言葉を操作する能力も高いものです。言葉は、名前のことです。名前は、実質とは異なります。そのため、思考能力が高いことと、実質を操作できる能力が高いこととは、直接的には結び付かないのかもしれません。名前と物とは異なります。名家の場合は、名前だけの世界を操作できる能力に優れていたのです。それが原因で、名家と詭弁家とは、関係が近い学派と見なされたのかもしれません。現実世界は、名前だけの世界とは異なるものです。現実世界の実質を操作できる能力が、人間には求められます。現実世界の実質を操作できる能力を求めずに、言葉だけの世界を操作できる能力を求めてはなりません。言葉と物とは一致しないものです。現実世界の中にある、実物を、人間は操作できなければなりません。
 名家の場合であれば、純粋な学問として、論理学の研究を行う学派であると考えられるので、その存在意義の認められる学派であるのかもしれません。しかし、詭弁家の場合は、不純な動機が働いている学派であるのかもしれません。そのため、名家と詭弁家とは、区別する必要性があるのかもしれません。名家の場合は、架空の言葉の世界と、現実の世界との関係を、深く考えています。つまり、名家の場合は、実体に基づいた、言葉の研究を行っているのです。そして、名家の学派は、現実世界を考慮した上で、名前と実質とを一致させることを目標とします。しかし、詭弁家の場合は、現実世界から離れてしまっているのです。名家の場合は、現実世界と、言葉だけの世界と、両方の世界を研究しています。詭弁家は、現実世界を考えない態度なのです。つまり、名家の研究が片寄れば、名家は詭弁家となる、と考えられるのです。そのため、名家と詭弁家とは、隣り合わせの関係であると、考えられるのです。
 しかし、詭弁家の存在は、人々に対して、名家の行う研究が、危険性を持つことを教えます。名家の場合は、現実世界の中で、人間らしく、研究者としての人生を真面目に歩みながら、論理学の研究を行っています。しかし、詭弁家の場合は、現実世界の中で、人間らしく生きる人生から、離れた状態で、論理学の研究を行っています。つまり、詭弁家には、「人間らしさ」が欠けているのです。








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