月曜日
日本の思想
前田利家という人物について
月曜日は、日本の思想の日です。今日の題は、前田利家(としいえ)という人物について、です。前田利家は、織田信長と、豊臣秀吉と、徳川家康とが生きていた時代に活躍した人物です。
まず、前田利家は、男であるのならば、富士の山の心と、奉公の心とを持たなければならないと、考えています。それは、つまり、強い心と、優しい心のことです。前田利家は、男は強くて、優しくなければならないと、主張するわけです。男として、富士の山の心を持つことができれば、それ以上に強い心はありません。富士の山は、大きくて、不動の存在です。そして、奉公の心を持つことによって、他人の役に立つことのできる人物となります。確かに、男は、両方の心を持つことが重要です。
たとえ、富士の山の心を持つことができたとしても、それだけでは、男の価値としては、高くない、ということです。強い心だけでは、前田利家に言わせれば、半人前なのです。普通に考えれば、富士の山の心を持つような、強い男であれば、十分であると満足するものです。しかし、前田利家は、強いだけの男には満足しません。前田利家は、奉公の心を持つ、優しい男であることをも求めるのです。通常の男は、富士の山の心を追求することにのみ、目を奪われるものです。男は、ごつごつした、岩のような鋼の力を持つべきであると、考えるものです。そして、男は、鋼の力さえあれば、向かうところ敵なしであると、考えがちです。鋼の力のある男は、奉公の心を持つことを考えない以上に、奉公の行為を、恥ずべき行為と考えて、避けたりします。つまり、鋼の力だけのある男は、ボランティア精神に欠けるわけです。前田利家は、男に対して、強い心を持つと同時に、ボランティア精神を持つべきことを主張します。人間は、一人だけで生きているのではない、ということを、前田利家は考えているのです。人間は、奉公の心を持ち、人の役に立たなければなりません。人と人とが、助け合う集団でなければ、人間社会ではありません。
しかし、奉公の心だけを持つ男では、主体性のない人物となります。奉公の心を持つだけの男では、他人の言うことに振り回され、そして、他人の命令に従うのみの男となります。奉公の心を持つだけでは、主体性のある男とはならないのです。ふらふらした男になります。厳格な男ではないのです。そのような、奉公の心を持つだけの男では、頑固親父になることはできません。威厳のある父親になりません。一家の大黒柱として、家族の主導権を握ることのできない父親です。つまり、奉公の心だけを持つ男であっても、男としては認められないのです。男には、富士の山の心が必要なのです。富士の山のような、不動の主体性を、男は持つべきなのです。富士の山の心が男にあれば、一家の大黒柱として、威厳のある父親になることができます。
しかしまた、「威厳のある男」の方向に片寄れば、人の意見を聞かない、頑固な男になります。富士山のような、不動の心と、そして、他人の意見に従う、奉公の心とを、いかに調和させるべきであるのかが、難しい部分です。強さと、優しさとを、両方同時に兼ね備えた男であることを、前田利家は求めるのです。富士の山の心は、絶対的な不動心を持つ、主体性のある姿勢です。それは、人間として、内面が強い、ということです。富士の山の心を持つ内面であれば、人間は、どのような災難に襲われたとしても、精神的な病気で倒れることはありません。富士山の心があれば、内面は頑丈でしっかりしている、ということです。富士山には、大きな岩石を投げつけたとしても、崩壊するようなことはありません。つまり、ガラスの心のような内面ではありません。ガラスの心では、簡単に壊されてしまいます。人間に富士山の心があれば、心に巨大な岩石を落とされたとしても、全然、何ともありません。ガラスの心を持つ人間にとっては大きな災難であることが、富士山の心を持つ人間にとっては、小さな出来事であると感じられます。そして、その富士山の心で、奉公をしなければなりません。富士山の心は、鈍感であるのかもしれません。しかし、奉公は、他人の感情が問題となります。他人の気持ちが分からなければ、奉公に失敗します。奉公のためには、ガラスの心を持つべきかもしれません。他人への奉公には、繊細な心が適しているわけです。自分は富士山の心を持っていたとしても、他人は富士山の心を持ってはいないかもしれません。他人の心は、ガラスの心であるのかもしれません。そのため、自分は富士山の心で構えながらも、他人の心は繊細に扱う必要があります。他人には優しくするわけです。しかし、自分は、他人からの優しさを求めないのです。自分の心には、岩石を落とされたとしても、全然構わない態度であり、そして、他人の心には、傷一つ付けないような態度です。鈍感な富士山の心では、奉公を上手に行うことはできないのかもしれません。しかし、他人の意見に振り回されるような心では、富士山のような、強い主体性を保つことができません。そのため、多少は、強引な奉公となるかもしれません。富士山の心で行う奉公なので、力強い奉公です。ひ弱な奉公ではありません。相手を押し倒すような、エネルギーに満ちた奉公です。巨大な力で、相手に奉公をするのです。富士山の心を持つ男だけが行うことのできる、独自の奉公です。大きな奉公です。
そしてまた、前田利家は、国の領主であった人物です。そのため、前田利家には、自分の治める国を滅ぼさないための、政治的な責任がありました。前田利家は、政治の任務にも当っていたのです。そして、前田利家は、自分の治める領地の人々の生活を、大切に考えていました。その結果、前田利家は、自分の治める領地の人々から、親しまれる存在となりました。前田利家は、自分の治める国を、繁栄させたのです。前田利家は、国を滅ぼす政治家ではなかったのです。前田利家は、国を繁栄させる人物です。前田利家は、国の領主として、立派な人物です。
そして、前田利家は、自分の国を繁栄させることを考えると共に、自分の家を繁栄させることをも考えます。自分の家を繁栄させる、ということは、子孫繁栄のことです。子孫が滅亡すれば、家も滅びます。前田利家は、自分の国と、自分の家とを、繁栄させることを願っていたのです。それでは、前田利家は、どのような考えを持って、国と家とを繁栄させるのでしょうか。前田利家の考える、国と家とを繁栄させる、秘訣とは何でしょうか。
前田利家の考える、国と家とを繁栄させるための要点とは、つまり、「悪い部分を改める」ということです。毎日の日常生活の中で、悪い部分があれば、それを改善させるのです。それは、人間が生きていく上で、決して忘れてはならない事柄であると、前田利家は考えています。もしも、悪い部分を改めない態度で生活を続けたとすれば、国も家も滅亡してしまうと、前田利家は主張します。
前田利家は、事物を、行動と反省、そして、善と悪とに大きく分けて考えます。まず、人間は、行動する場合には、人々の役に立つような行動をするべきであると、前田利家は主張します。そして、人間は、行動を休止する場合には、反省をして、自分の誤りを、正すことを考えるのです。そして、善は広く勧めて、世間に普及させることを、前田利家は訴えます。悪の方は、改善することに努めるのです。そのようなことを忘れなければ、国も家も繁栄が続くと、前田利家は考えています。つまり、悪い部分を改めることです。正しい行動と、正しい行動をするための反省とを、毎日、忘れずに実行することで、国も家も安泰なのです。
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