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火曜日

西洋の思想




マキャヴェリーの「君主」について


 火曜日は、西洋の思想の日です。今日は、マキャヴェリーの「君主」について考えます。マキャヴェリーは、西洋のルネッサンスの時代に生きた人物です。
 マキャヴェリーは、『君主論』を書いたことで有名です。マキャヴェリーは『君主論』の中で、君主の人間性に関する主張をしています。君主は、どのような人間であるべきなのでしょうか。
 マキャヴェリーの考える君主とは、支配者のことです。支配者は、権力を持つ人物です。君主は、権力を持ち、民衆を支配する人物です。マキャヴェリーの考える君主の問題点は、道徳性のないことです。支配者は、道徳性を持つ必要はない、とマキャヴェリーは主張します。その部分に対して、多くの人々がマキャヴェリーを非難しています。マキャヴェリーの考える君主には、道徳性がないのです。道徳性のない君主が、なぜ理想的な君主であると考えられるのでしょうか。君主は、道徳性を持つべきではないのでしょうか。なぜ、君主の人間性には、道徳性が不必要なのでしょうか。
 それは、マキャヴェリーが、君主の作戦遂行能力を重視していたからです。たとえ道徳性のある君主であっても、作戦遂行能力がなければ、そのような人物は、君主としての適性を備えていないのです。君主は支配者です。支配者に求められるものは、絶対的な力です。支配者は、支配力を持っていなければならないのです。そのため、君主は支配力さえ持っていれば、道徳性を持つ必要はないと、マキャヴェリーは考えるのです。つまり、君主は善良な人では務まらない、ということです。
 マキャヴェリーは、才能のある君主を求めているわけです。平凡な善人では、君主の才能がないのです。目標を確実に達成できるだけの能力が、君主には求められるのです。君主には、失敗が許されないのです。そこで問題となるものが、「手段」です。マキャヴェリーの求める君主は、目標を達成させるためには、手段を選んではなりません。道徳性のある君主では、手段を選ぶわけです。道徳性のある君主は、目標を達成させるために、道徳的でない手段を選べないのです。道徳性にこだわる手段を選ぶのです。つまり、道徳性のある君主は、細かいことを気にする君主である、ということです。そのような君主では、目標を達成することができません。道徳性のあることが、かえって、支配者として必要な性質の邪魔となるのです。支配者としては、時には、道徳性を捨てることも重要なのです。冷酷な性格の君主であったとしても、目標さえ達成できれば、全て認められるのです。マキャヴェリーの求める君主は、目標を達成させるために必要な、合理的判断のできる人物です。そして、手段を選ばずに、確実に目標を達成させなければなりません。その際には、道徳的な手段であるかどうかを、気にしてはならないのです。支配者は、細かいことを気にせずに、目標を達成させることだけを考えるのです。そのため、マキャヴェリーの考える君主には、道徳性は必要ないのです。
 善良な君主であるために、滅亡させられることがあるわけです。善良な君主が、国を滅亡させるのです。例えば、善良な支配者は、「人間は信用第一だ」とか、「譲り合いの精神が重要だ」などと考えるものです。そのため、善良な支配者は、常に正直に物事を話し、そして、相手の言葉を全て信用します。そしてまた、自分よりも相手の利益となるような行動をとります。そのような行動をとる、善良な支配者では、支配力に欠けているのです。正直者の支配者では、他の国の支配者によって、意のままに利用されてしまいます。そのため、支配者には、人間としての善良な性質は必要ないのです。
 つまり、マキャヴェリーの考える君主は、道徳性自体を、追求の対象とはしないのです。君主に必要な、道徳性を身に付けること自体が、目標とはならないのです。道徳性を身に付けることは、目標達成のための、一つの手段と考えるのです。目標達成のためには、欠かすことのできない要素である場合にのみ、道徳性を手段として身に付けるのです。目標を達成させることに対しては、関係のない道徳性であれば、身に付けることはありません。
 そのため、マキャヴェリーの考える君主には、必要最低限の道徳性のみが身に付いているだけなのです。道徳性を多く身に付けることよりも、道徳性を少なく身に付けることを考える君主です。基本的には、人間にとっては、道徳は無駄なものであると、その君主は考えるのです。そのような無駄を省くことができる人物ほど、支配者に向いている、ということです。支配者は、目標を達成させることだけに、自分の時間と労力とを使うべきなのです。支配者は、道徳性自体の追求を目標としてはならないのです。支配者は、人間の道徳性を、目標達成のための手段として考えなければなりません。道徳性は、目標ではなく、手段の一つとして身に付けるものと考えるのです。そのため、マキャヴェリーは、君主の道徳性は、見せかけのもので良いと考えています。支配者は、人々に対して、自分が道徳性のある支配者であるということを、見せかけることができれば、それで十分なのです。見せかけの道徳で、事態を済ますのです。支配者は、善人を装い、人々に自分のことを信じさせるのです。外見だけが善良な支配者であれば、支配者としての条件を満たしているのです。それ以上の道徳性は要求しません。
 つまり、マキャヴェリーは、君主に対して、道徳性よりも、力を要求していると考えられるのです。力がなければ、理想の君主ではないと、マキャヴェリーは考えるのです。支配力のある君主こそがマキャヴェリーの理想とする君主です。支配力がなければ、国を守ることができないのです。道徳性のある善良な支配者では、権力闘争に敗れてしまいます。君主には、権力闘争を乗り越えるだけの力が求められるわけです。目標を達成させるためには、たとえそれが卑怯な手段であったとしても、使用するのです。手段が卑怯なのか、卑怯でないのかは、問題ではない、ということです。目標の達成を第一と考える支配者です。
 マキャヴェリーが善良な支配者を否定する理由は、善良な支配者では、相手に滅ぼされてしまうと考えるからです。善良な支配者では、滅ぼされてしまうと、マキャヴェリーは考えるのです。善良な支配者は、強い者に滅ぼされると、マキャヴェリーは考えるのです。善良な支配者は、強い者に滅ぼされるのです。つまり、マキャヴェリーは、善良な支配者を、弱い者であると考えているわけです。弱い者では、君主としてはふさわしくないのです。結局のところ、マキャヴェリーは、君主を強い者か弱い者かどうかで判断するわけです。
 そのため、マキャヴェリーは、道徳を否定する考え方ではなく、計画達成第一主義の立場であったのです。君主に必要な性質として、道徳性が第一番であることを、マキャヴェリーは否定するのです。君主に必要な性質にも、順位が考えられるのです。道徳性は、その順位の中では、第一番ではない、ということです。マキャヴェリーは、君主には、道徳性よりも、戦闘能力を求めるのです。しかし、マキャヴェリーは、君主の道徳性を、完全否定してはいません。権力闘争に必要のない道徳は、捨てるべきであると考えられます。しかし、人間らしい心を持つことを、マキャヴェリーは、決して否定してはいません。マキャヴェリーは、自分の国のことを大切に思っていたのです。マキャヴェリーには愛国心がありました。そして、マキャヴェリーは、理想の君主に対しても、自分と同じく、国を大切にする心を持つようにと願っていたのです。マキャヴェリーの考える、非情で冷酷な君主にも、愛国心を持つ必要があったのです。マキャヴェリーも、君主に支配される国民の一人だったのです。つまり、国のことを思うマキャヴェリーの、君主に対する意見です。もしも君主が、国のことを大切に思っていなければ、たとえマキャヴェリーであっても、容認することはできません。








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