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火曜日

西洋の思想




レウキッポスとデモクリトスについて


 火曜日は、西洋の思想の日です。今日の題は、レウキッポスとデモクリトスについて、です。レウキッポスとデモクリトスは、古代の西洋において、原子論を主張した創始者です。原子論の創始者として、二人を分けることは困難です。
 レウキッポスとデモクリトスは、古代の西洋で、科学的な世界観を唱えた人物です。原子論者としては、レウキッポスよりも、デモクリトスの方が有名です。しかし、レウキッポスとデモクリトスは、古代の時代に生きた人物であるので、彼らの主張を、どちらの人物の説であるのか、明確に区別することはできません。分かっていることは、彼らが原子論を唱えたことです。原子論の基本的な主張では、世界は分別不可能な、小さな原子から構成されていると考えます。原子論者は、分別不可能な、原子の存在を信じています。原子論は、原子の存在以外を認めないので、唯物論とも結び付いています。原子論では、原子は物質であると考えます。
 しかし、原子論で問題となる事柄があります。それは、原子以外の存在です。原子論では、数多くの原子から、世界が成立していると考えます。その主張は、一貫した、筋の通った説のように思われます。原子論によって、世界を全て説明付けられるように思えます。しかし、原子以外の存在がある場合、原子論には問題が生じます。原子だけでは、世界を説明できないのです。
 原子論で問題となることは、空虚の存在です。レウキッポスも、デモクリトスも、空虚の存在に対しては、はっきりとは答えていません。レウキッポスは、物質的な原子以外の、空虚の存在を認めています。原子論は、唯物論のことであると、一般的には考えられるものです。しかし、レウキッポスは、物質以外の、空虚の存在を考えています。原子論者であるのにも関わらず、原子以外の存在を認めています。つまり、世界を、原子の存在だけで一貫して説明しないのです。原子論者であれば、世界の全てを、原子の存在だけで説明するはずです。その原子論者が、原子以外の存在を考えているわけです。それは、物質と、非物質の問題です。「物質がある」と考えれば、その反対のことも考えられます。「物質がない」と考えるのです。原子論者は、「世界は原子で満たされている」と考えます。その流れから、「原子で満たされていない世界」を考えることができるのです。原子の存在していない、空虚があるのかどうかが問題となります。空虚がある場合、原子論だけでは世界を説明し尽くすことができません。
 原子論において考えられる原子とは、分割不可能な物質です。原子論では、原子と、分割と、空虚とに対する問題を考えなければなりません。空虚がなければ、分割ができません。空虚がなければ、原子が動きません。つまり、原子と原子の間には、何があるのか、という問題です。原子と原子の間に、空虚がなければ、分割不可能なのです。原子は、分割不可能なのです。そのため、もしも原子と原子とが、一つに合体していれば、原子を分割できないのです。さらに、空虚がなければ、世界には、原子の数が一つしかないことになります。原子の、分割の問題です。原子の存在は、その一つは詰まっている存在であると考えられます。詰まっていれば、分割できません。そしてまた、運動の問題があります。原子の内部では、運動を考えることができません。一つの原子の内部には、運動はないと考えられます。それは、原子の内部が詰まっているからです。詰まっていれば、運動ができないのです。つまり、分割不可能であれば、運動ができないことになります。分割できるから、運動ができるのです。そして、分割のためには、空虚が必要です。空虚はあるのか、空虚はないのかが問題です。
 原子があると考えれば、その反対に、原子はないとも考えられるのです。原子だけの世界を考えた場合、首尾一貫した主張が難しいことに気付くわけです。原子があるだけでは、原子は運動することができないのです。そのため、世界に、原子以外の存在を考えることになります。しかし、原子以外の存在を認めれば、首尾一貫した原子論とはなりません。原子には、「分割不可能な物質」という条件がついています。その条件では、最後まで推し進められないのです。原子の存在があれば、空虚ではありません。詰まっていれば、空虚ではありません。しかし、詰まっていれば、運動がありません。現実の世界には、運動があります。つまり、原子論では、現実世界の運動を説明できないのです。原子論では、運動の不可能説に行き当たるのです。世界が原子で詰まっている場合、世界に運動がありません。最初は、原子だけで世界を説明できるような気分を持っていたのです。しかし、原子だけを考える原子論では、現実世界を説明できないのです。原子論の説と、現実世界との間に、摩擦が生じるわけです。原子論は、説だけであれば、完璧です。原子論の説の上であれば、矛盾はありません。しかし、現実の世界を考えた場合、原子論は机上の空論ではないかと、考えられるのです。原子のある世界を考えれば考えるほど、原子のない世界を考えるようになるのです。原子のない世界は、あるのか、ないのかを、人々は考えるのです。原子論に問題があることを、人々は発見します。
 レウキッポスは、原子以外の空虚の存在を認めています。デモクリトスの場合は、空虚の存在を経験的に認めています。レウキッポスとデモクリトスの原子論は、科学的な態度のある主張です。それは、知ることのできないことに対して、無理矢理に説明を考えない態度です。レウキッポスとデモクリトスの態度は、科学的な態度なのです。その態度は、世界の「根拠」や「目的」を考えない態度です。レウキッポスとデモクリトスは、世界をあるがままに眺めるのです。人間は、世界の根拠を見ることはできません。そのような、見ることのできない対象に、レウキッポスとデモクリトスは関心を持たないのです。例えば、世界の根拠に、神を考えないのです。そのため、レウキッポスとデモクリトスの原子論には、問題を棚上げした部分があるわけです。レウキッポスとデモクリトスの原子論には、追求していない問題がある、ということです。レウキッポスとデモクリトスは、神の問題を追求していないのです。西洋においては、世界の根拠や目的に対して、神を考えることが多いものです。そして、西洋人の多くは、世界の根拠として、神の存在を信じることが多くあります。しかし、レウキッポスとデモクリトスが主要な問題としたことは、神を信じることではありませんでした。
 古代人である、レウキッポスとデモクリトスには、知的好奇心によって世界を解明しようという、健全な態度があったのです。一般的に、神を信じる人物には、世界全体に対する知的好奇心が見られません。レウキッポスとデモクリトスは、神のことを問題とせず、純粋な知的好奇心によって、世界を探求したのです。その態度は、人間の健全な態度の一つであると認められます。神を信じる人物は、盲目的な態度を持っているわけです。盲目的な態度は、人間の不健全な態度の一つであると考えられます。盲目的な人物には、知的探究心が開かれていないのです。そのような人物は、一種の、塞がれた心の持ち主なのです。塞がれた心は、人間にとって不健全であると認められます。古代人のレウキッポスとデモクリトスには、純粋な知的好奇心が開かれていたのです。その態度は、健全な心であると評価できます。レウキッポスとデモクリトスの以後の時代の学者には、健全な態度が少なくなります。不健全な態度は、多くの場合、世界の根拠に神を考える態度から発生するものです。神を考えることによって、純粋な知的好奇心が閉ざされるのです。レウキッポスとデモクリトスは、世界の根拠を考えませんでした。その態度は、学説の不徹底の態度であると考えられるかもしれません。しかし、神のことを無理矢理、強引に考える態度は、素直な態度ではなく、人間の不健全な態度です。素直な知的好奇心で、世界を探究する姿勢が健全な態度です。








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