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火曜日

西洋の思想




ライプニッツの「単子論」について


 火曜日は、西洋の思想を考えます。今日のテーマは、ライプニッツの「単子論」について、です。西洋において、ライプニッツの活躍した時代は、近代です。
 ライプニッツは、「単子論」によって、世界の成り立ちを説明します。ライプニッツの考えでは、この世界は「単子(モナド)」の集合によって形成されているのです。そのライプニッツの考える、「単子」とは、どのようなものなのでしょうか。
 まず、ライプニッツの考える「単子」とは、実体であるものです。しかし、その実体である単子を、延長のある実体であるとは、考えないのです。その単子には、延長だとか、広がりだとか、大きさだとか、幅だとか、高さだとか、面積だとか、そのようなものがないのです。単子は、広がりのない、点であると考えられるのです。そして、単子の数は、無限に存在するものと、ライプニッツは考えます。無限の数ある単子で、世界が構成されているのです。また、数だけではなく、単子の種類も無限にあるとライプニッツは考えます。単子は、数と種類とが無限なのです。そのため、ライプニッツは、単子が世界であると考えるのです。ライプニッツは、世界の存在を、単子によって説明するのです。では、ライプニッツの「単子論」と似ている世界観を持つ、「原子論」と、比較して考えることにしましょう。
 「原子論」も、世界を原子の集合であると考えます。ライプニッツの「単子論」と、「原子論」とは、共通点があります。そのどちらの論も、それ以上は分割することができない最小単位の材料から、世界が構成されていると考えます。そして、単子の数も、原子の数も、無限であると考える傾向があるでしょう。しかし、考える人が異なれば、世界に存在する原子の数は、有限であると考えるのかもしれません。世界の中にある原子の数は、無限であるとは考えないのかもしれません。原子の場合は数に限りがあると考えるのでしょうか。しかし、単子も原子も、それ以上は分割できない、非常に小さな存在です。そのため、数については、どちらも、無限に近いほど存在するものであると考えられます。では、単子と原子の、種類については、どのように考えられるのでしょうか。ライプニッツが考える単子の場合は、それぞれの単子で一つづつ種類が異なっているのです。つまり、単子の数だけ種類があるのです。単子の数と単子の種類とは、同数である、ということです。しかし、原子論が考える原子の場合は、その種類が限られています。原子の種類は、多く数えられないのです。そのため、原子の場合は、世界の中で、同じ種類の原子を数多く発見することができると考えられます。
 現代科学の世界観では、原子論の世界観の見方です。原子の種類は、原子の数ほど多くはありません。そのため、現代科学では、同じ原子が世界の中に数多く存在すると考えるのです。それは、一つの、画一的な考え方です。現代科学は、個性を認めないのです。現代科学は、没個性と均質性とを目指しているのです。現代科学は、なるべく多くの種類の個性を認めようとする態度ではない、ということです。現代科学は、個性の種類については、多く認める態度ではなくて、なるべく少なくしようと考えているのかもしれません。個性の種類は少なく、そして、同じ種類の存在の数は多く増やすのです。個性の均質化と、そして、大量生産です。つまり、現代科学は、均質的な商品を大量生産する考え方です。しかし、それに対して、ライプニッツの単子論では、均質的商品の大量生産などは、不可能なことなのです。
 ライプニッツの単子論の考えでは、世界の中には、均質的な同一商品などは、存在していないのです。単子には、同じ種類の単子はないからです。そのため、商品を百個作れば、その百個の商品は一つづつ異なった存在物であると考えられるのです。完全に同じ商品を作ることはできないのです。ライプニッツの単子論は、なるべく個性を多く認めようとする考え方です。世界の中には、一つとして、同じ個性を発見することはできない、と、ライプニッツは考えるのです。現代科学では、「水」であれば、世界の中のどこの場所にある水も、同じ水であると考えます。現代科学は、「水」の個性を認めないのです。現代科学は、原子の配列さえ同じであれば、同一物であると考えるのです。そのような考え方の方が、効率が良いというわけです。効率を良くして、回転を早めようという考えです。そのためには、種類をできるだけ少なくするのです。種類を少なくすれば、選別することに手間がかかりません。その点を考えれば、ライプニッツの単子論の考え方は、一番手間がかかる方法かもしれません。現代科学の場合は、種類を整理して、種類を少なくする方針であるのに対して、ライプニッツの場合は、種類の数を無制限に認める考え方です。そのようなライプニッツの考え方では、同一商品を作ることはできない上に、それぞれの商品に対して、一つづつ異なる価格を設定する必要性も発生すると考えられます。それでは、非常に面倒な作業を要することになります。ライプニッツの考え方で生まれた商品は、世界に一つだけのオーダーメイドの商品であるようなものです。
 そして、ライプニッツの単子と、原子論の原子とでは、異なる点を他にも考えることができます。それは、ライプニッツの単子は、一つの魂であると考える点です。単子の性質は、物質である、ということではないのです。単子は、延長や広がりのある実体ではありません。そのため、単子は、魂であるとか、精神であるとか考えられるのです。原子の場合には、単子のように、精神実体であるようには考えられていません。現代の科学者の中で、原子には精神が宿っている、などと考える人は、少ないと考えられます。科学者の中にも、原子に精神の存在を考える人もいるのかもしれません。最先端の現代物理学では、原子と精神を同じように扱うものかもしれません。しかし、通常の原子論の原子は、物質であると考えられています。そのため、原子論は唯物論と結び付いているのです。世界は物質世界で構成されていると、原子論は考えたりします。しかし、ライプニッツの考える、世界を構成している、それ以上分割できない最小単位の単子は、魂なのです。
 そのため、ライプニッツの単子論の世界観は、唯物論の世界観ではありません。ライプニッツの世界観は、唯物論ではなく、唯心論の世界観であるのです。この世の中は、単子の魂が集まった世界です。どのような物体の中にも、単子の魂が入っているのです。そして、一つ一つの単子ごとによって、魂の種類が異なるのです。世界の中のどの単子も、一つとして他に同じ単子を見つけることはできないのです。つまり、そのようなライプニッツの単子論から、物を大切にする姿勢が生まれるのです。物を粗末に扱ってはならない、ということです。世界の中には、同じ商品は売られていない、という考えです。そのため、一度、物を壊せば、二度と同じ品物を買い戻すことはできないのです。つまり、人体だけではなく、物体にも個性を認める考え方です。








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