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水曜日

東洋の倫理・道徳




『孝経』の「孝之始」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日は、『孝経』の「孝之始」について、考えます。『孝経』は、古くから、儒教の有名な書物として人々に認知されています。
 さて、この、『孝経』の「孝之始」の教えの内容というものは、「親から授かり受けた自分の体を大事に扱うことが、孝の始まりである」というものです。自分の体を大切にすることから、孝が始まるのだ、ということです。まずは、親から受けた、自分の身体の健康増進に努めることが、孝の始まりなのです。つまり、自分の身体を損なうような行動をとることは、孝の道から外れている、というわけです。
 まず、孝を行うには、何よりも、自分自身の命を大事にしなさい、という教えです。自分の命を大事にすることが、「孝」であるのです。それは、危険な行為はやめなさい、という内容も含まれているのです。自分の命を危険にさらすような行動は、「孝」ではないので、慎むべきであるのです。
 例えば、台風で大雨が降っている時に、川に行き、増水中の川の中に飛び込むような、危険な行為は、孝ではないのです。また、上空の何百メートルも上から飛び降りる、スカイダイビングも、孝ではないのかもしれません。それにまた、普段の日常生活の中でも、自分の身体を大切に扱うことは、孝の基本となる行動なのです。つまり、健康長寿を目指すことが孝の基本なのです。自分の体を病気にしてはならない、ということです。自分の体を病気にすることは、孝ではないのです。例えば、生活習慣病になる、などということは、全然、孝ではないのです。そして、もしも生活習慣病が原因で、人生が短命に終わってしまう事態ともなれば、それは大きく孝に反する出来事となるのです。まずは自分の身体が丈夫でなければ、孝を行うことはできないのです。
 しかしながら、この「孝之始」の教えから学ぶべきものは、「孝を行う」ということではないのかもしれません。「孝を行う」よりも、その前のことの重要性に気付かせようとする教えであるのかもしれません。世間の一般の人々は、「孝」というものについて考えた場合、行動のことばかり考えてしまうものです。それが、「灯台下暗し」の過ちなのです。つまり、行動をする前に、行動をする自分の存在そのものを、「孝」の状態にするべきである、という教えです。自分という存在が、まず「孝」でなければならないのです。「孝」は自分の外にばかりあるのではなくて、まず自分という存在そのものが、親から受けた存在であるので、その自分を大切にすることも、「孝」であることを理解するのです。
 例えば、一般の人々は、何か賞を取れば、孝になると考えるものです。確かに、賞を取れば、孝になるのかもしれません。そして、それらの一般の人々は、賞を取ることだけを考えて、賞という対象だけに目を奪われてしまいがちなのです。そしてその結果、賞を取ろうとした人間の存在そのものが、病気に倒れたりするのです。賞を取ったとしても、その人が病気で倒れてしまっては、孝ではないのです。そのような事例は、自己満足であるのかもしれないのです。他人の気持ちを思って行動したのではないのかもしれません。他人を悲しませることは、孝ではないということです。賞を取って孝でありたければ、賞を取ることだけを考えてはならないのです。「取られる賞」と同時に、「賞を取る人間」のことも考えなければ、孝にはならないのです。身体を修復不可能な状態にまで自分を追い込んで賞を取ったとしても、そのことに対して、周囲の人々は気分を害するのかもしれないのです。周囲の人々の気分を害する行動であっては、孝であるとは認められないのです。つまり、孝を実現するためには、自分という存在そのものを大切にしなければならない、ということに気付かなければならないのです。自分の身体を大切にすることは、孝を実現するための、基本中の基本であることを、よく覚えておくべきなのです。
 しかしまた、世間一般の人々は、自分の身体を大切にすることに対して、疑問を感じるものなのです。その疑問というものは、「自分のことだけを考えるのは、悪いことなのではないか」というものです。確かに、その疑問の通り、自分のことだけを考えてはいけません。しかし、この「孝之始」の教えで言われる「自分の身体」というものは、自分の身体であって、自分の身体ではないのです。その部分を深く考えるべきなのです。例えば、「孝」とは、先祖の身体を大切にすることです。そして、自分の身体を大切にすることは、先祖の身体を大切にすることでもあるのです。それは、「孝」なのです。自分を大切に扱うことは、先祖を大切に扱うことにもなるのです。それは、自分の先祖に対する「孝」なのです。そしてまた、自分の身体を大切にして健康にすることは、周囲の人たちの役に立つことです。それは、周囲の人々、社会の人々に対する、「孝」なのです。つまり、自分の身体を大事に扱わない人間は、義務を怠っているというわけです。つまり、自分の身体を、自分だけの所有物と考えてはならないのです。自分の身体は、「孝」を達成するための、大切な身体であると考えなければならないのです。確かに、自分のことだけを考えて、自分の身体を大切にすることは、孝ではないのかもしれません。しかし、自分の身体を大切にしなければ、孝を実現できないのです。
 孝というものは、親に対するものだけが考えられるのではないのです。自分の先祖に対する孝や、社会に対する孝や、国に対する孝などを考えることができるのです。つまり、自分という存在は、様々な対象に、孝を行わなければならない存在なのです。孝の活動を実践するのです。しかし、その孝の活動を行うには、自分の身体が必要となるのです。親から受けた自分の身体を使って、孝の実践活動をするのです。そのためには、自分の身体は大切にしなければならないのです。それは、義務なのです。例えば、ある人は自分の身体を使って、危険な行動をしたり、危険な場所へ行ったりします。しかしそのような人は、自分が孝の使命を果たさなければならない存在であることを忘れているのです。








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