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金曜日

西洋の倫理・道徳




幸福について


 金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、幸福について、です。西洋では、人間にとって何が幸福であるか考えられています。
 西洋では、幸福を、最高善であると考える姿勢があります。最高善は、他のための手段とはならず、目的としてのみ存在するものです。そのため、最高善は、人間の人生において獲得すべき、究極の目的であると考えられます。人間は、最高善を得るために生きているのです。そして、その最高善こそが、幸福であると西洋では考えられていたのです。幸福が最高善であるため、人間の生きる究極の目的は、幸福を得ることになります。人間にとっては、幸福が最も重要なのです。
 では、幸福とはどのようなものであると考えられるのでしょうか。西洋では、大きく分けて、幸福を静態的に考える場合と、動態的に考える場合とがあります。静態的な幸福は、人間が活動を停止させているような状態の中で得られるものです。そして、動態的な幸福は、人間が活動中の状態の中で得られるようなものです。西洋の幸福の考え方は、人間が行動を起こしているのかどうかによって種類を分けることができるのです。西洋では、学者によって、幸福に対する考え方が異なっています。人間は幸福を得るために生きているものですが、しかし、人間にとっての絶対的な唯一の幸福が考えられているのではありません。それぞれの人間によって、何が幸福であるのかが異なるのです。
 静態的な幸福は、精神的な幸福を得る種類のものであると考えられます。静態的な種類の幸福は、肉体的な感覚の中に幸福を見出しません。静態的な種類の幸福の特徴としては、肉体的には無感覚の状態の中で得る部分があります。それは、幸福を体で味わう態度ではありません。肉体が受ける感覚は、苦痛である場合があります。静態的な幸福の考え方では、肉体の苦痛を避けるのです。そして、その考え方では、体を動かすところに人間の幸福を見出さない傾向があります。もちろん、その考え方であっても、人間の肉体の健康状態は、良好であることが求められます。しかし、健康な肉体を持ちながらも、体を動かすことが人間にとっての最高の幸福であるとは考えないのです。体を動かすことは、労働とも結び付いています。幸福を静態的に考える学者は、労働には否定的な態度を持っています。人間は労働を仕方なく行っていると考えるのです。労働自体は幸福ではないと考えます。労働の結果が幸福であって、労働の最中は幸福ではないと考えるのです。それ自体の行為の中で幸福を得るのでなければ、その行為を幸福であるとは認めないのです。静態的に幸福を考える学者は、人間の精神的な安らぎの中に幸福を見出す傾向があります。その幸福は、瞑想中に得られるような種類の幸福です。瞑想の場合は、瞑想の行為自体が幸福であると考えます。労働の場合は、労働の終わった後に幸福を得るのです。しかし、瞑想の場合は、瞑想の行為自体が目的であり、幸福であると考えます。幸福を静態的に考える学者は、肉体の苦痛を避けて、瞑想を行う中に幸福を見出すのです。それは、肉体の感覚から離れた、精神的な幸福です。肉体的な感覚で味わえる幸福ではありません。肉体的な感覚から遠ざかった幸福です。その幸福は、人間の心の中で、静かに味わうような幸福です。
 静態的な種類の幸福は、人間が活動を停止させた中に幸福を考えるようなものです。動態的な種類の幸福は、人間が活動している最中に幸福を考えるものです。動態的な幸福の考え方は、人間の行動の途中を重視します。人間は、行為を終えてから幸福を味わうのではなくて、行為の途中において幸福を味わう、という主張です。感覚を持って生きている人間にとっては、感覚を感じながら幸福を得ることは当然のことであると考えるのです。幸福を動態的に考える学者は、人間の感覚を否定しません。幸福を動態的に見る学者は、人間は感覚を受けながら幸福になると考えます。もちろん、肉体の感覚と共に、精神的な充足感も得られることが重要です。肉体と精神と、共に満足した状態が幸福です。そして、幸福は、過程の中にあると主張します。静態的な種類の幸福では、行為の過程の中に幸福を見出すのではなくて、行為の終わった到着点において幸福を見出しています。しかし、動態的な種類の幸福では、到着点までの過程の中に幸福を見出します。そして、その考え方では、労働自体の中に人間の幸福を見出します。幸福を動態的に考えるので、労働の最中を幸福であると考えるのです。労働の結果だけが大切なのではありません。労働の過程も大切なのです。「大切」とは、幸福である、という意味です。労働の結果だけを人間の幸福であると考えてはならないのです。労働の過程にも幸福があるのです。労働自体を人間の幸福であると考えるのです。それは、人間の進歩を幸福に考える態度です。人間は、生きている限り、完全な状態へと進歩しているのです。その進歩の最中に幸福を見出すのです。人間にとっては、進歩と発展が幸福なのです。活動を停止させた中には、進歩と発展がありません。動態的な幸福は、活動の最中にあります。幸福を動態的に考える人間は、「労働の喜び」を、労働している最中にも味わっているのです。労働が終わってから喜ぶのではなくて、労働の実行中に喜んでいるのです。そして、労働が終わった後は、むしろ幸福を感じないのです。進歩と発展のある、労働過程を幸福と考えるのです。
 幸福を静態的に考える学者も、動態的に考える学者も、人間の精神的な要素を重視します。肉体的に感じる幸福は、一時的な幸福であり、永続性を持たないものであると考えられています。一時的には肉体的な幸福を味わったとしても、持続的には得られないのです。肉体的な幸福を味わった後は、味わった幸福以上の不幸な目に遭う場合もあります。肉体的に感じる幸福には、注意しなければならないのです。肉体的に感じる幸福に対しては、幸福を味わった後のことも考えるべきなのです。肉体的な幸福が生涯続くとは限りません。幸福を肉体的に味わった後に、大きな精神的苦痛を感じるかもしれません。幸福は、肉体の面だけではなく、精神の面をも考える必要があるのです。幸福を動態的に考える学者であっても、人間の精神の進歩と発展の中に幸福を見出しています。つまり西洋では、どのような学者も、幸福の精神性を重視しているのです。幸福を静態的に考える学者は、肉体的には無感覚の状態の中であっても、人間は精神だけで幸福を感じることができると主張しています。幸福を動態的に考える学者の場合は、肉体と精神の両方を満足させる主張です。どちらの種類の幸福も、人間の精神性を重視しています。精神性がなければ、人間は幸福を味わうことができないのです。
 そのため、人間が幸福を得るためには、肉体的には最低限の条件が備わっていれば十分であると考えられます。しかし、必要最低限の肉体的な条件さえ備えられない場合であっても、人間は幸福を得ることが可能です。西洋の幸福の考え方に従えば、人間は無感覚の状態の中でも幸福を得ることができます。肉体の状態は、当然、健康であることが望ましいことです。そして、肉体的な幸福だけを求めないことが、総合的に見て、大きな幸福を得られる態度であると考えられます。人間個人の幸福は、社会的な環境の中で得られるものです。社会的に幸福な生活を送るためには、人間の精神能力が必要です。人間は、社会に適応することで幸福を得ることができるのです。社会に適応するためには、精神能力の面にも目を向ける必要があります。そして、社会に適応している間は、人間は幸福を持続して得ることができるのです。人間が永続した幸福を得るためには、社会に適応し続けなければならないのです。社会的に幸福な環境を築くためには、精神性が必要です。肉体的な条件を備えることは当然のことです。肉体的な条件を備えた上で、尚且つ、精神性の向上を目指すのです。








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