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火曜日

西洋の思想




古代西洋の懐疑学派について


 火曜日は、西洋の思想の日です。今日の題は、古代西洋の懐疑学派について、です。古代の西洋においては、懐疑学派に所属する人たちがいました。
 古代の西洋の懐疑学派は、物事を疑う姿勢があります。その姿勢は、現代社会の人々においても見受けられる姿勢です。つまり、懐疑学派の態度は、珍しいものではない、ということです。懐疑学派の態度は、人間の、一般的な態度でもあるのです。人間は誰でも、物事を疑う性質を持つものです。懐疑学派の態度は、人間にとって、基本的な態度です。疑うことは、考えることにつながっています。人間は誰でも、思考能力を持っています。人々は、物事に対して、日々、何事かを考えています。人間は誰でも、考え事をしながら生きているのです。そして、考えることは、疑うことでもあります。考えることの基本形態は、懐疑なのです。懐疑から、考えることが始まるのです。考える人は、基本的には、疑う人なのです。疑いを持つことから、人間は考え始めるのです。
 疑いを持つことに対して、批判的な考え方を持つ人もいます。疑いを持つ態度は、素直ではない、ということです。人間は、素直が一番であると、考えるのです。疑いを持つ人は、性格が悪いわけです。しかし、疑いを持つことは、人間が生きていく上では、欠かすことのできない性質の一つなのです。物事に対して、疑う能力のない人物は、非常に危険な人物なのです。そのような人物は、日常生活を送ることもできません。人間の性質の中に、疑う能力が、離れ難く備わっているのです。それは人間にとって、疑う能力が、絶対に必要な能力であるからです。疑う能力は、人間の生命維持の上では、必要不可欠な能力なのです。疑う能力は、危険を予測する能力でもあります。危険を予測することができない人間は、生き続けることのできない人間です。「もしかしたら、危ないのではないか」と、疑問を持ちながら、人間は生活を送るものです。危険であるのか、それとも、安全であるのか、疑問を持たなければなりません。人間は、危険を避けて、安全な方向を選択しなければなりません。危険を避けるには、危険を疑わなければなりません。「危険ではないのか」と、疑うのです。人間は、用心しながら生きるのです。その、用心の能力が、懐疑の能力です。
 人間は、懐疑の能力を持たなければ、生存し続けることができないのです。人間には、誰でも、懐疑学派の姿勢が備わっているのです。しかし、どのような人間であっても、懐疑学派に所属する人物であると評価されるのではありません。懐疑学派に所属することも、簡単なことではありません。懐疑学派に所属するためには、過度の懐疑の姿勢が必要です。懐疑学派に所属する人物は、一般の人々よりも、疑い深いのです。一般の人々も、疑いの能力を持ちながら生きています。しかし、懐疑学派の人たちは、一般人以上に、物事を疑っていたのです。個性として認められる程度にまで、懐疑的な態度を持っていたのです。一般人とは、異なる特徴が見られるのです。一般の人も、懐疑的能力が備わっているのですが、しかし、懐疑学派の人たちは、自分の懐疑の説に対して、強い主義主張を持っていたのです。一般人の場合の懐疑は、思い浮かべれば、すぐに消えてしまうものです。しかし、思い浮かんだ懐疑を消さずに、追求し続ければ、懐疑学派に所属する人物の態度であるとして認めることができます。懐疑に対して、強いこだわりを持たなければ、人間は懐疑学派に所属することができないのです。
 古代西洋の懐疑学派にも、発展の歴史のようなものを考えることができます。初期の懐疑学派は、世間の、ありふれた常識を疑っています。世間一般の常識に対して、疑うことから、懐疑学派が始まるのです。懐疑学派にとっては、世間一般の、常識や、慣習が疑わしいのです。世間の人々が守り続ける、習慣的行動に対して、疑問を発するのです。初期の懐疑学派が問題としたことは、自分たちと身近な、社会の伝統行事に対することであったのです。そして、その後の懐疑学派は、社会常識への問題から離れ、一般的な学説としての懐疑主義の問題を考える態度になります。懐疑学派が、日常問題から離れたのです。懐疑学派が問題とすることは、「真理」です。懐疑学派は、「真理」に対する懐疑を強く持ちます。初期の懐疑学派は、世間常識の中の真理を疑いました。そして、その後の懐疑学派は、人間の作る、学説の中の真理を疑うのです。
 懐疑学派には、真理を追求する態度があるわけです。しかし、真理を追求する学派は、懐疑学派だけに限られません。懐疑学派の他の学派も、真理を追求しています。懐疑学派の場合の真理の追求は、否定的な結論を導き出すことが特徴です。古代の西洋の懐疑学派にも、歴史があるのですが、しかし、懐疑学派が追求した真理の結論は、否定的なものです。懐疑学派は、積極的な真理を発見できなかったのです。懐疑学派の主張する真理は、「どのような物事の真理も、疑いが残る」ということです。つまり、「真理を発見することはできない」ということです。懐疑学派の特徴としては、他の学派よりも、否定的な態度がある部分です。他の学派は、自分たちの発見した真理を、積極的に主張しています。懐疑学派は、他の学派の発見した真理を、否定することに積極的なのです。確かに、懐疑学派の、真理を探究する姿勢には、積極的な部分もあるのかもしれません。しかし、懐疑学派は、真理を否定することに積極的なのです。つまり、懐疑学派は、基本的には否定的な態度であると考えられるのです。そして、古代の西洋の懐疑学派が残した学説の結論は、否定的な真理です。懐疑学派の主張する真理の結論は、最初から予想ができるような主張なのです。懐疑学派は、真理を否定することを真理と考える学派なのです。他の学派は、積極的に真理を主張する学派です。
 つまり、懐疑学派には、消極的な態度が見られるのです。懐疑学派は、消極的、否定的、批判的な態度と結びついているのです。懐疑学派は、他の学派の発見した真理を、否定することを目的としている部分もあります。確かに、懐疑学派は、表面的には真理を探究する態度を持っています。しかし、懐疑学派の基本的な態度は、積極的に真理を探究する態度ではないのです。そもそも、懐疑学派の、真理を探究する姿勢が疑わしいのです。懐疑学派には、本当に、真理を探究する気持ちがあるのか、ないのかが問題なのです。懐疑学派の真理の探究の姿勢は、嘘ではないのか、ということです。懐疑学派の真理の探究の姿勢は、表向きだけの姿勢ではないのか、という疑惑です。本心では、懐疑学派は真理を探究する気持ちを持っていないのかもしれないのです。懐疑学派は、否定的態度をとることで、ごまかしているのです。懐疑学派の学問的態度は、ごまかしの態度であると考えられるのです。懐疑学派は、真理を探究する気持ちが、他の学派よりも弱いのです。
 つまり、懐疑学派は、他の学派と比較して、落ちこぼれの学派であるとも考えられるのです。懐疑学派の真理を探究する姿勢は、インチキなのです。懐疑学派は、結論を出すことを避けるのです。懐疑学派は、結論の提出を、いつまでも引き延ばしているのです。懐疑学派の態度は、課題を未提出にする態度です。積極的な真理を考え出すことを、いつも後回しにする態度です。学生が、学校の宿題の苦労を回避する態度です。つまり、懐疑学派は、言い訳が多いのです。通常の学派であれば、積極的な真理を提出するものです。しかし、懐疑学派は、言い訳をして、否定的な真理を提出するのです。最初から、懐疑学派の結論は、否定的な真理であると、予想ができるのです。それは、言う前から分かっていることです。つまり、懐疑学派は、結論をごまかすのです。懐疑学派は、結論を提出することを拒否します。懐疑学派に対しては、真理や結論の提出を要求することはできません。








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