木曜日
東洋の思想
『近思録』の「兩儀」について
木曜日は、東洋の思想についての題で考えます。今日は、『近思録』の「兩儀」について考えます。『近思録』は、東洋の古い書物です。
さて、その、『近思録』の「兩儀」の話というものは、宇宙の生成の話です。宇宙の成り立ちを説明しています。それは、大極と無極とから、陰と陽とが生まれ、そして陰と陽とから、水、火、木、金、土が生まれた、という話です。「兩儀」とは、「陰」と「陽」のことです。
つまり、「陰陽五行説」です。それは、この宇宙の宇宙観です。この世界は、どのように生まれたのか、そして、どのような構成で存在するものであるのかについて、説明しています。世界は、太極から生まれた、ということです。そして、この世界の構成は、水、火、木、金、土、の気で成り立っているという話です。
この話は、古くから伝わる話です。しかし、古くから伝わる話であるのにも関わらず、完全に否定することができない話であるように思われるのです。それは、現代においても、同じような状況なのです。どのように状況が同じであるのか、と言えば、それは、宇宙の成立については、小、中学校の理科の授業で習うような内容と、大差がない、ということです。
その、宇宙の成立についての、「陰陽五行説」は、古くから、学校へ行く子供たちに教えられていたものであろうと思われます。しかし、現代の子供たちも、学校へ行くと、宇宙の成立について、本当かどうか分からない、「ビックバン説」を教えられるのです。「宇宙はビックバンという、爆発から生まれたのだよ」と教えられるのです。しかしその、現代の子供たちが学校で習う、「ビックバン説」も、将来においては、「陰陽五行説」と同じように、「昔からの古くから伝わる話」となるのかもしれないのです。ビックバンなどというものが本当にあったものかどうか、分かりません。ビックバンを信じる、などということは、宗教を信じることと同じことかもしれません。「あなたは、ビックバンを、信じますか? 」というものです。学校の理科の授業で、子供たちに、宇宙の成立の宗教を教えているのかもしれません。
そしてまた、「陰陽五行説」の宇宙成立の話を完全に否定することができない理由として、「説明が大雑把である」ということを挙げることができます。つまり、陰陽五行説は、「太極が変化することで世界が生まれた」というものです。そのような大雑把な説明では、否定するにも否定できません。それは、現代のビックバン説についても考えられます。現代のビックバン説も、要するに、「太極の変化が宇宙である」と考えるような、大雑把な説明の仕方です。そのような大雑把な説明では、古い陰陽五行説と同じ程度の説明の仕方であるのかもしれません。
つまり、「原因から結果が生まれた」と考えるものです。宇宙の原因から宇宙が生まれた、と、考えるわけです。「この世界には、この世界の原因となるものが存在していたのだろう」と考えるのです。そしてその、宇宙の原因となるものを、昔の人は、太極であると考え、そして現代の人は、それを、ビックバンの種であると考えるのです。しかし、現代のビックバン説も、やはり大雑把な説明なのです。大雑把な説明であり、否定できないのです。大雑把であり、本当かどうか、よく分からないので、否定することもできないのです。しかしそれは、全くの机上の理論であり、空想上の話であるとも結論できないのです。
それはつまり、空想と現実とが、混ざり合っていると、考えられるのです。陰陽五行説の場合の空想の部分は、太極の存在です。そして現実の部分は、「陰」と「陽」の兩儀と、水、火、木、金、土の存在です。現実世界の中で生活する上では、「陰」と「陽」と、水、火、木、金、土は、現実の話なのです。つまり、水、火、木、金、土の存在が、私たちの現実の生活と深く結び付いていることを、私たちは確かなものとして実感できるのです。だからその延長線上に、太極の存在も考えることができるのです。現代におけるビックバン説についても同様に、現実と空想とが混ざったものであると考えられます。現実世界を観察した上で、本当かどうか分からない空想の話を考えるのです。
つまり、水、火、木、金、土の存在については、私たちは確かなものとして、信じられるのです。その部分が信用できるからこそ、人々は太極の存在についても信用するのです。陰陽五行説の、何もかも、全部が信用できない話ではないのです。水、火、木、金、土の部分は、具体的な存在として、私たちは確認することができるのです。それは、現代科学の原子説と、ほとんど同じなのです。昔は、原子の数が五個だった、ということです。現代では、その原子の数が増えただけです。現代の科学も、陰陽五行説も、世界観は共通しているのです。その世界観というものは、つまり、「世界の構成要素の動いたものが世界である」という世界観です。世界は、「動と静」と、「構成要素」とでとらえられるのです。その点では、陰陽五行説の世界観の考え方は、現代科学の世界観と同じであるのかもしれません。
水、火、木、金、土の「構成要素」の、「動と静」で世界が生成するのです。「陽」が動であり、「陰」が「静」というわけです。原子は存在するだけでは、世界にはならないということです。原子は、動いたり、止まったりを繰り返すことによって、現実世界の中で生きる、というわけです。動と静、陽と陰がなければならないのです。しかし、陽と陰を、別々のものとして考えてはならないのです。
太極が陽と陰であるわけです。つまり、私たちは、太極の中の存在ということです。太極の変化が陽と陰であるわけであり、そしてまた、太極の変化の中に人間が存在するのです。太極が陽と陰であり、太極が水、火、木、金、土であるのです。太極自体は、二つあるのではない、という話です。世界は一つであるという考えです。「世界は陽の世界と、陰の世界とに分けられる」という考えではないのです。太極が陽と陰とを生じたのであるけれども、太極の存在自体は、陽と陰とに分裂して、別々に離れて存在するようになった、ということではないのです。つまり、全ての出来事は、対極の変化の出来事であると考えられるのです。だから、陽と陰との存在は、太極の中で、互いに離れて存在しているのではないのです。陽と陰とは、太極の中で、両方同時に、近い所で存在しているのです。
当ホームページ内の文章の引用・転載を禁止します。(C)matsui genemon.