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水曜日

東洋の倫理・道徳




韓愈の「性情論」について


 水曜日は、東洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、韓愈の「性情論」について、です。韓愈は、中国の唐朝時代に活躍した有名な人物です。
 韓愈は、「性情論」で、人間の「性」と「情」を考えます。人間の「性」とは、人間が生まれながらに持つ性質です。そして、人間の「情」とは、人間が物と接する際に、人間に生じるものです。韓愈は、人間の性として、仁、礼、信、義、知、を考えています。そして、韓愈は、人間の情として、喜、怒、哀、懼、愛、悪、欲、を考えています。
 韓愈の説では、人間は生まれた時には、仁、礼、信、義、知、の性を、既に持っている、ということです。人間は、生まれた時から、何の苦労もすることなく、善の性質を持っているのです。赤ん坊には、仁、礼、信、義、知、の性質は備わっていない、と韓愈は考えるのではありません。人生経験を積まなければ、仁、礼、信、義、知、の性質を人間は持つことはできない、という主張ではありません。人生の中で苦労しながら、人間は、それらの五種類の性質を持つことになる、と考えないのです。赤ん坊として、人間に生まれた時点で、五種類の性を持っているのです。つまり、韓愈の考え方は、平等主義ということです。韓愈は、人間の赤ん坊を差別しないのです。赤ん坊であれば、誰もが五種類の性を持っているのです。苦労の上に、五種類の性質を身に付けるのではありません。赤ん坊には、生まれた時点で、五種類の性が、既に備わっているのです。つまり、赤ん坊には全員に、将来の可能性が備わっている、ということです。人間の性の五種類は、人間全員に平等に与えられているのです。そのため、大人の人間にも、五種類の性が既に備わっているとも考えられます。赤ん坊が持っているのなら、大人も持っているはずです。人間は、努力によって五種類の性を身に付けるわけではない、ということです。赤ん坊に備わる五種類の性は、天性の素質というものです。人間には、天性の素質が平等に備わっているのです。
 しかし、五種類の性質の、大きいか小さいかの区別はあるのかもしれません。人間の性質にも、苦労なしで得られる部分と、苦労の後で得られる部分とを考えることができるのです。天性の素質は、どの赤ん坊にも平等に備わっているのです。しかし、天性の素質だけに頼っているのでは、大きさがない、ということです。五種類の性は、大きくなければ、価値も大きいものではないのです。天性の素質の才能は、誰にでも備わっているのです。しかし、それは大きく発展させなければならないのです。つまり、「才能がない」という言葉は、間違っているのです。正しくは、「才能が小さい」ということです。才能は、赤ん坊にも備わっているのです。しかし、その才能は、発展させなければ、小さいのです。大人でも、天性の素質と、才能が備わっているのです。才能は、ゼロではないのです。しかし、その大きさが問題であると考えられます。小さな才能でも、あることはあるのです。目立たない才能ではあっても、人間の中に存在することは確かなことです。赤ん坊の場合でも、目立たない、小さな才能を持っているのです。小さいので、大きくするのです。小さな才能では、価値が小さいと考えるのです。可能性はあるけれども、しかし、実現はできない、というような状態です。つまり、赤ん坊は、可能性を持って生まれるのです。可能性だけは、平等に、赤ん坊の全員に備わっているのです。
 それを、どのように受け止めるのかが重要です。人間の中の、天性の素質というものに対して、人間は、どのような姿勢をとるべきであるのか、ということです。最初は、才能が小さいのです。そのことを受け取る態度にも、様々な態度を考えることができます。まず、人間の才能の小ささを、ないものと同様に扱う態度があります。その態度は、人間の小さな才能を、消滅させようとする態度です。つまり、小さな才能なら、持っていても役に立たないので、いらない、という姿勢です。その姿勢の中には、目立たない才能を発見しても、それを伸ばそうという気持ちが見られません。小さな才能を、たとえ発見できたとしても、そのような才能を、なかったことにするわけです。
 そして、人間の中に、小さな天性の素質を発見して、それを発展させようとする姿勢も考えられます。そのような態度は、人間の才能の可能性を信じるわけです。人間の才能を発展させることに、挑戦する態度です。そのような態度をとる場合、努力と苦労が必要です。人間の可能性を信じる態度には、苦労が付いています。赤ん坊の可能性を信じる親は、その赤ん坊の才能を伸ばすために、鬼のような親になるのかもしれません。人間の才能を信じる道は、鬼の道なのです。赤ん坊や、他人の中に小さな才能を発見する場合ではなくて、自分の中に小さな才能を発見する場合であっても、それを伸ばそうとする態度をとるのであれば、自分自身に対して、鬼の心になる必要があるのです。つまり、人間の中の天性の素質というものに対して、様々な対応の仕方が考えられるのです。
 人間の中の、小さな天性の素質を、ないものと考えた方が、楽に生きられるのかもしれません。人間の才能の可能性を信じたために、苦しい人生を過ごす結果になることも考えられます。気楽に生きたければ、小さな才能の可能性を、人間の奥底に眠らせたままにする方が、気楽であるのかもしれません。人間の可能性に対する姿勢によって、その人の生き方が変わるのです。小さい才能であれば、赤ん坊の中にでも備わっているのです。ほとんど平等に、才能だけは持って人間は生まれたのです。赤ん坊の能力には、大差はありません。そして、赤ん坊には、天性の素質が備わっているのです。つまり、人間は、努力が必要である、ということです。問題は、天性の素質が重要であるのか、それとも、努力が重要であるのか、ということです。しかし、赤ん坊は平等であるのです。赤ん坊が平等であるのなら、人間は努力が必要なのです。
 韓愈の「性情論」は、努力論ではありません。人間の心の問題が考えられています。人間は、どのような性質を持って生まれたのか、そして、人間の感情は、どのように考えられるものなのかを問題としています。韓愈の「性情論」では、人間の先天的な部分と、後天的な部分との関係の問題を考えています。人間は、生まれた時は、どのような存在であったのか、そして、生まれた後の人間は、どのような存在であると考えるべきなのかが問題です。人間は、善である存在なのか、それとも、悪である存在なのかが、一つの論点となります。
 人間の性質の問題です。人間には、変わらない部分と、変わる部分とがあるわけです。人間は、赤ん坊であった頃の状態は変えられないのです。天性の素質を与えられた赤ん坊の状態を、別の状態の人間に変化させることはできないわけです。人間の素質は、天才ということです。しかし、人間の性質は、人生経験を積み重ねるに従って、変化するものであると考えるのです。喜怒哀楽の感情は、物と関わることによって生じるのです。つまり、人間は、事物との関わりの中で、変化する存在なのです。事物との関わりがなければ、人間は赤ん坊のまま、変化しないのです。天性の素質はあるけれども、しかし、喜怒哀楽の感情が身に付いていなかったりします。つまり、赤ん坊と、事物との、接触が問題となるのです。可能性を秘めた赤ん坊が、どのように事物と関わるのかによって、赤ん坊の将来も変化するのです。また、人間を、赤ん坊の状態のまま、守り続けるべきと考えるのか、それとも、人間を事物と積極的に関わらせて、変化させるべきと考えるのか、ということも問題です。








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