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金曜日

西洋の倫理・道徳




カントの道徳について


 金曜日は西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、「カントの道徳について」です。カントの、道徳についての哲学は、有名なものであります。
 さて、「カントの道徳」というものは、つまり、個人主義と、全体主義とを、ぴったり一致させる行為をしなさい、ということではないでしょうか。個人主義の行為が、そのまま、全体主義の行為に重なり合うように行動しなさい、ということではないでしょうか。
 道徳、というものは、現実の中で、実際に行動する中にあるのだという、そのようなものなのです。それでは、現実の中で、どのような行動をすれば、道徳になるのであろうか、という問題です。
 その問題について考えてみると、「科学」の問題にも当たったりするのです。人間が、科学的な行動をすると、どうなるのか、というようなことです。科学的な行動というのは、自然法則に従った行動というわけです。夜空に輝く星たちが、規則正しく、法則に従って動いている、というようなものです。そしてまた、動物界においては、動物たちは、自然法則に従って、どのように動いているのでしょうかと考えるのです。動物たちは、自分個人の幸福を求めて行動しているのです。自然法則に従って行動すると、動物たちは、自分個人のみの幸福を求めて行動するようになると考えられるわけです。自分に不快な思いをもたらす行動はとらないで、自分に快楽をもたらすような行動をとるようになるのです。自分だけの快楽、自分だけの幸福を求めて行動するのです。
 しかし、自分だけの幸福を求めて行動していては、人間に道徳はないということです。自分の幸福のことより、他人の幸福、全体の幸福を考えて行動しなさい、ということです。自分のためではなくて、みんなのためになるような行動をしなさい、というようなことです。みんなのためになるような行動ができる所に、人間らしさがあるわけです。つまり、動物たちは個人主義で行動しているのだけれども、しかし、人間は全体主義の行動がとれるのだ、ということです。その、「全体主義」というものは、「共産主義」というような意味と、同じような意味なのです。人間が他の動物たちと比べて特徴的な所は、人間は、共産主義社会を営める所にあるのだ、というわけです。道徳的な社会とは、共産主義社会だというようなことです。
 そのような、「全体主義」、「共産主義」と言うと、「自由主義」とは、反対の主義であると、私たちは考えるものです。確かに、「共産主義社会」は、人間らしい社会かもしれない、しかし、共産主義には、自由がない、自由がない生活なんて、全然生きていても楽しくない、ということです。「自由のない人生なんて、嫌だよ」ということです。「みんなのために動きなさい、全体主義の行動をしなさい、と、命令している、その人こそ、個人主義者だ」ということです。そこから、共産主義の魔の手から逃れようと、自由を求めて闘争が始まったりするということです。
 しかし、カントの道徳では、「自由」がキーワードになっていたりするのです。道徳には、人間の「自由」が重要なものであると、カントは考えているのです。自由がなければ、道徳は生まれない、というような考えです。なぜ、道徳には、「自由」が重要であるのでしょうか。
 それはつまり、行動を選択できる自由がなければならない、という理由だと思われます。つまり、行動を自分で自由に選べなければ、人間に道徳はないのだと、カントは考えるのではないでしょうか。人間は、自由に行動できるからこそ、人間には道徳があるというわけです。もし、人間に自由がなければ、人間は自然法則に従って生きる動物たちと同じようであり、そこに道徳はないということです。人間に自由がなく、ただ人間は機械的に動いているだけであるとすれば、人間に道徳はないということです。
 つまり、人間は、自分で、「個人主義の行動をとる」のか、もしくは「全体主義の行動をとる」のか、選ぶ自由がなければ、人間に道徳はない、と、カントは考えるわけです。カントは、個人の自由を主張しているのです。
 その点では、カントは、どこまでも、個人主義なのです。カントはどこまでも、個人主義者、自由主義者なのです。しかしまた、カントはどこまでも、全体主義者なのです。カントはどこまでも、普遍性を求めているのです。カントは、世界全体のことを考えているのです。
 つまり、カントの道徳というものは、個人主義者、自由主義者が選ぶ、全体主義社会、共産主義社会である、と、考えられるかもしれません。どこまでも自由主義者であり、そして、どこまでも全体主義者なのです。人間には、全体主義を選ぶ自由がなければ、道徳は、ないということです。自由がなければ、人間は機械や動物とそれほど変わらない、というようなことです。だから、カントは、人間に道徳を求めるのならば、人間に自由の存在をも求めるのです。つまり、カントは全体主義なのだけれど、自由主義、個人主義だということになるのです。カントの道徳というのは、自分が選んだ個人主義の行動が、そのまま全体主義の行動になるようにしなさい、というような内容なのです。自分の中から見れば個人主義の行動であり、他人から、外から、その行動を見れば、全体主義の行動になる、ということでしょうか。
     








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