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木曜日

東洋の思想




『十八史略』の「鼓腹撃壌」について


 木曜日は東洋の思想です。今日の題は、『十八史略』の「鼓腹撃壌」について、です。
 この、『十八史略』の「鼓腹撃壌」の話は、中国古代の帝王であった、堯(げう)の政治の様子の話です。堯の人柄と、堯が治めた時代についてのことが描かれています。堯という人物は、どのような人物であったのか、そして、堯の政治時代は、どのような世の中であったのか、ということについての話です。
 『十八史略』という書物は、中国の歴史が書かれた書物です。そしてその書物の問題は、どの部分が事実であり、そして、どの部分が著者の想像による部分であるのか、ということが問題であると考えられます。『十八史略』に書いてあることを、そのまま全部、真実であると信用することができるのかどうか、ということが問題となります。『十八史略』の著者は、その書物を、著者が生きていた当時の中国で集められる、信頼性のある歴史の資料に基づいて、資料の通りに正確に書いたのでしょうか。『十八史略』に書かれてあることが、どの程度信頼できる内容であるのかが分かりません。
 つまり、堯という人物は、本当に実在の人物であったのか、という疑問が生じるのです。それはまた、疑問であると同時に、興味、関心を抱く、ということでもあります。その気持ちが、歴史を調べる行動を生むのです。好奇心ということです。疑問から、興味と好奇心の気持ちが湧くのです。歴史の真実を知りたいのです。その歴史の本に書かれている事が、本当に事実であるのかどうかを確かめたい気持ちです。つまり、『十八史略』の真実です。堯という人物は、本当に、書いてある通りの人物であったのでしょうか。また、本当に書いてある通りの出来事が起こったのでしょうか。そのことが、まず問題となるのです。『十八史略』は、歴史の本であるということです。歴史の本であるのならば、その内容には、正確性が求められるでしょう。しかし、内容の正確さというものを、歴史の本には求めるべきではないのでしょうか。歴史の本の中へ、事実とは異なる内容を書くことは、果たして許されるものなのでしょうか。
 歴史の本には、少しぐらいの嘘は許されるのだ、という意見も考えられるのかもしれません。大らかな気分を大切にするわけです。歴史の本であっても、事実とは異なる記述をすることは構わない、ということです。歴史の真実だけを追求した、事実の羅列の本では、面白くない、というわけです。事実の記述だけの客観的な歴史書では、全然面白く読むことができない、という意見です。その歴史の本の中に登場する、歴史の主人公たちが、生き生きと活動する所が面白いものだ、ということです。そのため、歴史的事実よりも、物語性を重視するのです。登場人物にも、主人公とか、脇役とか、敵役とかを設定するのです。そして、起承転結のストーリーを考えます。さらに、登場人物たちへの感情移入を起こしやすくするため、登場人物たちの会話の部分を多くするのです。そのような面白い歴史の本の方が、多くの人々に読まれるものです。つまり、著者の個性を発揮すべきかどうかの問題です。著者の個人的意見を、どの程度、内容に反映させるべきか、ということです。
 確かに、客観的な事実のみが記述されている歴史書では、面白い歴史書ではない、ということです。『十八史略』についても、著者の個性が発揮されているから面白いということです。しかし、基本的には、歴史の事実以外の事を書いてはならない規則です。客観的な内容の歴史書でなければなりません。客観的な内容であると認められる条件を満たすのです。そしてその条件を満たした上で、自分の個性を発揮するのです。ほとんど著者の個人的意見のみで書かれてあるような歴史書では、歴史書の価値はありません。事実は事実として書くのです。
 堯という人物についても、嘘を書いたものではないと考えられるのです。堯について書かれてあることは、事実であると思われるのです。間違った事が書かれてあれば、それは歴史書ではありません。『十八史略』に登場する堯の人柄や、堯の時代の政治についても、その当時の記録が残っていたのです。その記録を元に、正しい記述がされているものです。
 しかしまた、この「鼓腹撃壌」の話は、著者の創作である部分も含まれているのかもしれません。つまり、堯の人柄と、堯の政治との部分は、著者の願望の現れたものであるのかもしれないのです。著者の個性の発揮です。また、著者の意見ではなくて、多数の人々の意見であったということも考えられます。著者の生きていた時代に、人々の多くが持っていた、堯に対する意見を、著者がまとめ上げたものかもしれない、ということです。著者の時代の、人々の堯に対する意見というわけです。もしも現代の中国人が、堯についての歴史を書けば、『十八史略』とは異なる、堯についての歴史を書くことになるのかもしれません。著者の個性が反映されるのです。著者の個性と、その時代の人々の感情とが、歴史書に反映されるのです。つまり、歴史の事実が、人々の感情によって、曲げられるということです。
 歴史の解釈の問題です。できれば、自分の国の過去の歴史は美化したい、というような感情もあるのです。しかしまた、同時に、自分の国の過去の歴史を正確に知りたい、という気持ちもあるのです。美化した歴史よりも、真実の歴史を求めるのです。美化した歴史を取るのか、それとも真実の歴史を取るのか悩むのです。できれば、真実の歴史が美しい歴史であれば問題はありません。
 確かに、歴史を美化などすることなく、真実そのままの歴史が美しければ、それが一番だ、ということです。人々の感情によって左右される歴史ではなくて、真実そのままの歴史であることが第一です。事実を最優先させるのです。そして、事実でありながら、美しい内容にするのです。読めば感動する歴史書を書くのです。事実に加えて、感動も付加されていなければなりません。歴史書には、事実だけを求めるのではなくて、感動する内容をも求めるわけです。








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