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土曜日

現代の思想




ジャック・ラカンの「無意識言語」について


 土曜日は、現代の思想の日です。今日の題は、ジャック・ラカンの「無意識言語」について、です。ジャック・ラカンは、構造主義者として有名です。
 ジャック・ラカンは、近代的な自我を批判します。近代的な自我の説では、人間は自分の自我を自分で支配できると考えます。しかし、ラカンは、人間は自分の自我を全て支配できないと考えます。自分の自我は、自分では自覚できない、無意識の支配を受けているのです。自我は、自分で意識できるものです。近代的な説の自我は、意識できる自我を絶対であると考えます。近代では、自分の自我は自分で全て把握できると考えます。ラカンは、近代的な自我の考え方の誤りを指摘します。自我は、自分では自覚できない、無意識の影響を受けているのです。そして、ラカンは、無意識は言語の構造を有していると主張します。ラカンは、無意識と、言語の構造を結び付ける考え方なのです。
 ラカンの考え方の注目すべき点は、無意識と言語の構造を重視した部分です。無意識を大切にする学者は、ラカンの他にも大勢います。近代的な自我は、無意識の考え方で否定されます。意識できる自我は絶対ではないのです。自分の存在は、自分では自覚できない部分から影響を受けていると考えます。自分とは、主体のことです。無意識の考え方によって、主体の考え方が変化したのです。近代的な主体は、意識できる主体です。しかし、無意識の考え方が取り入れられた現代的な主体では、意識できない部分も含めた上での主体を考えます。現代的な主体は、近代的な主体よりも、大きな存在なのです。現代的な主体では、意識と無意識とを合わせて考えています。現代では、主体が近代よりも巨大になったのです。近代の主体は、狭小でした。近代では、意識できる心だけを認めていました。近代は、心の狭い考え方だったのです。現代では、無意識が考えられており、幅広い心を受け入れられます。
 近代では、「絶対確実」を追求することに固執して、視野が狭くなったと考えられます。人間の精神を考える際において、「絶対確実」を近代では過剰に追求したのです。近代の主体に対する考え方は、疑い深い態度があったのです。近代の主体の狭小さは、疑い深い考え方の弊害として表れているのです。近代では、疑い過ぎた結果、自覚できる精神のみを確実であると考えたのです。自覚できる精神であれば、「絶対確実」であると、近代の学者は考えたのです。しかし現代では、自覚できない精神も主体に認めるのです。それは、人間には無意識があると考えるからです。無意識の考え方は、現代の学者の間で、広く認められています。そして、ラカンも、人間の主体に無意識を受け入れています。無意識を主体に受け入れる考え方は、現代では珍しくありません。近代的な学者では、主体に無意識を受け入れる人物は見当たりません。現代で主体に無意識を考えるのは、精神分析学が発達したからです。ラカンも精神分析学を勉強しています。精神分析学を勉強すれば、近代的な自我の狭小さを理解することができるのです。しかしラカンの場合は、精神分析学だけで新しい主体の考え方を主張するのではありません。ラカンは、言語学も勉強していたのです。ラカンの主張する主体で独自な点は、精神分析学だけでなく、言語学も取り入れている部分です。
 ラカンは、精神分析学から、無意識の学説を主体の考え方に取り入れます。そして、ラカンは無意識の学説と、言語の構造の学説とを合わせて考えます。ラカンは、無意識と言語構造とを、合体させるのです。それは、ラカン独自の学説です。精神分析学と言語学とを合わせることによって、ラカン独自の考え方が生み出されたのです。主体に対する新しい考え方を学界で発表するに当たっては、独自の視点が求められます。精神分析学だけを取り入れる学説では、独自性が高くありません。現代では、無意識を考えるだけの主体では、特に目新しい考え方とは見なされません。現代で無意識の考え方を学界で発表したとしても、新学説であるとは評価されません。しかし、ラカンの無意識の学説の場合は、学界で高い評価を得ています。それは、ラカンが、無意識の考え方に、言語学を取り入れたからです。
 学界で評価を得るためには、独自性が必要です。他の学説と似たような学説では、独自性が評価されません。独自性を発揮するために、ラカンの場合は精神分析学と言語学とを組み合わせたのです。それは、精神分析学は古い学説であり、言語学は新しい学説である、ということではありません。言語学を勉強すれば、誰にでも新しい学説を考えられるのではありません。精神分析学を古い学説であると考えるのであれば、言語学も同様に古い学説であると考えられるのです。特に言語学が新しいのではありません。精神分析学と、言語学との、ラカンの組み合わせが新しいのであり、独自性があるのです。精神分析学か、言語学か、どちらか片方の意見を取り入れるだけでは、独自の新学説を作ることはできません。他の様々な分野の学説を取り入れることによって、ラカン独自の個性を発揮することができるのです。本人の希望による、独自の組み合わせが、個性として学界に認められるのです。学説の組み合わせ方に、その人の独自の態度が見られるのです。
 ラカンは、無意識を重視しながら、言語構造も重視します。そして、ラカンは、人間の自我の役割を小さく考えます。近代的な自我では、人間の精神で絶対的な地位を占めています。近代的な自我は、人間の精神そのものであると考えるのです。しかし、ラカンは、自我を人間の精神で絶対的な存在であるとは考えません。人間の自我は、無意識によって支配される、弱い存在です。ラカンは、人間の精神の中では、意識できる自我の力よりも、無意識の力の方を強い力であると考えます。ラカンは、人間の精神の無意識に重点を置きます。ラカンでは、意識よりも無意識の方が重要なのです。そしてまた、無意識は、言語の構造で成り立っているとラカンは考えます。そのような、言語の構造を持つ無意識から、自我が支配されるのです。自我は、支配するだけではなく、支配されてもいる存在です。人間の精神は、自我だけで成り立っているのではありません。人間の精神には、自覚できない部分もあります。人間の精神は、無意識に支配されます。そして無意識は言語の構造を持っています。人間の精神は、言語の構造にも支配されると考えられるのです。ラカンは、無意識の言語を重視します。一般的には、言語は人間の意識でのみ使用されると考えられています。人間は、意識して言語を使用するものであると、世間一般では考えられています。人間の無意識の領域には、言語を考えないのです。世間は、言語を意識と結び付けています。しかし、ラカンは言語を無意識と結び付けます。無意識には言語構造があるとラカンは主張します。人間の精神は、自分では自覚できない、無意識と言語構造とから影響を受けているのです。
 つまり、ラカンは、理論家なのです。人間は、理論に従って生きることが第一であると、ラカンは主張するわけです。理論的人生を送ることがラカンにとっては最上の人生なのです。それは、人間の理性を重視する考え方です。ラカンは、理性尊重主義の人物なのです。ラカンは、感情よりも、理論によって人間は行動するべきであると考えるのです。感情的な行動は、人間は慎むべきです。人間は、冷静沈着に行動するべきであるとラカンは考えるのです。そのためには、自分の無意識の言語構造からの声に耳を傾けるべきです。それは、良心の声です。無意識の言語構造が語る言葉に従えば、人間は、常に正しい行動を行うことができるのです。ラカンにとっての真理とは、無意識の言語構造なのです。無意識の言語構造は、絶対に正しいのです。無意識の言語構造に違反した考え方や行動は、全て間違っているとラカンは考えるのです。それは、感情よりも理性を大切にする人物の主張です。ラカンは、人間にとっては理性の世界が重要であると考えるのです。








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