金曜日
西洋の倫理・道徳
ヒエロニムスの「禁欲」について
金曜日は、西洋の倫理・道徳の日です。今日の題は、ヒエロニムスの「禁欲」について、です。ヒエロニムスは、五世紀頃に西洋で活躍した有名な人物です。
ヒエロニムスの大きな業績は、聖書を翻訳したことです。ヒエロニムスは、キリスト教を信仰する学者だったのです。そして、ヒエロニムスが生きた時代は、ローマ帝国が不安定な時代でした。ローマ帝国が不安定な時代の中で、ヒエロニムスは生活を送ったのです。ヒエロニムスの生きた時代は、安定した時代ではなかったのです。その時代の中で、ヒエロニムスは、キリスト教を信仰する生活を送るのです。ヒエロニムスは、聖書を翻訳する程、キリスト教を深く研究した人物です。厳しい現実世界の中でも、ヒエロニムスの、キリスト教への信仰心は熱心だったのです。世界が滅亡するように思えた、過酷な時代の中で、ヒエロニムスは、キリスト教を信仰することによって、人生に希望を捨てることなく、生活することができたのです。
そのようなヒエロニムスは、禁欲生活を送るべきことを主張します。キリスト教の信仰生活と、禁欲生活とは、お互いに切り離すことはできないと、ヒエロニムスは主張するのです。キリスト教を信仰する人物であれば、禁欲生活を送らなければならないのです。キリスト教では、人間を罪深い存在と考えます。人間は、罪を犯しやすい性質を持っていると、考えるのです。人間が罪を犯す原因は、人間が誘惑に負けてしまうからです。それは、人間の欲望と、悪魔の誘惑の問題です。人間は、悪魔の誘惑に負けてはならないのです。罪を犯さないためにも、人間は、欲望を抑えながら、禁欲生活を送るべきなのです。人間は、罪深い存在なのです。そのため、人間は、自分に対する、深い反省が必要なのです。禁欲生活は、反省の態度の表れです。禁欲生活を送らない人間には、反省の態度が見られないのです。本当に悔い改める気持ちがあるのならば、禁欲生活が実行できなければ、嘘の反省であると考えられます。人間は、欲望を抱き、そして誘惑に負けて、罪を犯すのです。欲望と、誘惑と、罪とが、密接に結び付いているのです。人間は、罪を犯してはなりません。罪を犯した人間は、地獄へ落ちることを考えなければなりません。大きな罪を犯した人間は、天国へ行くことはできません。人間は、罪を犯した分だけ、地獄へ近寄ることになります。大きな罪を犯した人間には、地獄が間近に迫っているわけです。凶悪な罪人は、地獄まで、あと一歩という、至近距離の状態なのです。人間は、天国での暮らしが、最高の幸福の暮らしです。人間にとっては、地獄の生活が、最悪の生活です。そのような、地獄の生活を、人間は避けることを考えなければなりません。地獄を避けるためには、罪を犯すことを避ける必要があります。そして、罪は、人間の、欲望を抑えることのできない、弱い心から発生します。悪魔が、人間に、罪を犯すように、誘惑をするのです。悪魔は、人間を、地獄へ落とすように考えているのです。人間を地獄へ落とすために、悪魔は人間を誘惑するのです。そして、欲望を抱く人間は、悪魔に狙われることになります。悪魔の誘惑に引き込まれた人間は、罪を犯すことになります。罪を犯した人間は、地獄へ落とされてしまいます。そして、人間が地獄へ落ちる姿を見て、悪魔は喜ぶわけです。悪魔は、人間が天国へ行くことを、嫌うのです。悪魔は、人間が地獄へ落ちて行くことを、愉快に思うのです。悪魔は、人間の不幸を喜ぶのです。
キリスト教の主張では、人間は、天使になることができれば、人間は、天国へ行くことができるのです。人間は、天使を目指すのです。そして、人間は、禁欲生活を送れば、天使の存在に近づくのです。人間の存在が、天使の存在に近寄れば、人間と天国との距離も、近寄るのです。つまり、人間は、自分の心の中の、天使と悪魔の戦いにおいて、悪魔を退治するように努めなければならないのです。人間の心には、天使と悪魔が潜んでいるのです。そのため、人間は、禁欲生活を実行して、心の中の悪魔を追い払うことが重要なのです。人間の中の、天使の心が、人間を天国に近づけるのです。禁欲生活を送る人間は、罪を犯すことがないので、天国へ行く資格があるのです。意味もなく、人間は禁欲生活を送るのではありません。
ヒエロニムスも、荒野の中で、厳しい禁欲生活を体験しました。キリスト教の信者も、苦行を経験することによって、信仰生活を深めることができるのです。キリスト教の信仰心を深めるためには、禁欲の、苦行の生活が必要不可欠なのです。そして、ヒエロニムスは、禁欲生活を、他人にも勧めます。ヒエロニムスは、禁欲生活を送る人間を尊敬するのです。ヒエロニムスにとっては、禁欲生活を送ることが重要なのです。キリスト教の信者であれば、禁欲生活は、避けて通ることのできない道なのです。キリスト教の真理は、禁欲生活の体験の中で、理解できる部分があるのです。聖書を読むだけでは、深く分からない部分が存在するのです。聖書を全部、隅から隅まで読んだとしても、それで聖書を全部、理解できたと考えてはなりません。言葉だけでは、キリスト教の真理を、本当に理解することはできないのです。そのため、ヒエロニムスは、聖書を翻訳しながらも、苦行を実行したのです。語学力に優れており、聖書を全て翻訳することができさえすれば、キリスト教の真理を全て把握できる、ということではないのです。キリスト教の真理を本当に理解するためには、ヒエロニムスのように、荒野の中で苦行を実行する必要があるのです。
一般的な学者では、ヒエロニムスのような苦行を実行しないものです。そのため、一般的な学者は、キリスト教の深い部分の真理を体得していないのです。しかし、一般的な学者は、真理を体得していないのにも関わらず、分かったように真理を語ります。キリスト教を研究する学者であれば、荒野の中で苦行を積まなければならないのです。キリスト教の信仰は、聖書の語学の勉強をすることではありません。確かに、聖書の原典を、全て翻訳することのできる人物は、キリスト教を深く理解する人物であると考えられます。しかし、その人物が、実際に禁欲生活を送っていなければ、その人物は、キリスト教の真理を本当には理解していないのです。そもそも、禁欲生活を実行していない人物では、聖書を正しく翻訳することはできないのです。禁欲生活を送らなければ、聖書は理解できないのです。そのため、正しい聖書の翻訳ができないのです。
ヒエロニムスの場合は、実際に、禁欲生活を送りながら、苦しんでいます。キリスト教の聖書に書かれている、言葉だけを解釈するのであれば、大きな苦しみはありません。しかし、実際に、ヒエロニムスは、苦しんだのです。その苦しみの中で、キリスト教の真理を理解するのでなければ、本当ではありません。欲望と、誘惑と、罪とに対して、実際に、深刻に悩まなければ、本当ではないのです。「欲望を抑えるだけだ」と、言葉では簡単に言うことはできます。しかし、実際に、欲望を抑えた生活を、送らなければなりません。悪魔の誘惑と、実際に、戦う体験を積むのです。悪魔の誘惑の恐ろしさを、本当に、心の底から理解できる人物こそ、本物の人物です。悪魔の誘惑の、真の恐ろしさが分からない人物には、聖書の翻訳をする資格はありません。自分の犯す罪に対する反省のない人物は、キリスト教を理解していないのです。キリスト教を理解する人物は、自分の欲望に悩み、悪魔の誘惑に悩み、そして、人間の罪に悩む人物なのです。ヒエロニムスは、実際に、荒野の中で悩んでいました。
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