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土曜日

現代の思想




ヤスパースの「包越者」について


 土曜日は、現代の思想を考えます。今日の題は、ヤスパースの「包越者」について、です。ヤスパースは、実存主義の代表的人物の中の一人であるとされます。
 ヤスパースの「包越者」は、ヤスパースの世界観と関わりがある言葉です。その言葉は、人間の存在とも結び付いています。人間が、世界の中で、どのように存在するのかを考える時に、ヤスパースは「包越者」の言葉を使用します。
 ヤスパースは、主観と客観を考えることによって、人間と世界をとらえます。結局、主観側が人間であり、客観側は世界であるとヤスパースは考えるのです。主観と客観とは、基本的には対立しているのです。ヤスパースは、主観と客観とを、基本的には対立させる枠組みの中で、自分の世界観を形成します。人間の側が主観であり、世界の側にあるものが客観です。そして、「包越者」は、主観と客観とを、大きな観点から包括する存在です。主観と客観とが対立している状態では、小さな観点から物事をとらえている状態なのです。ヤスパースの世界観は、大きな世界観です。人間は、大きく生きるべきなのです。そのため、世界観も、大きなものを持たなければなりません。そこで、ヤスパースは「包越者」を考えるのです。「包越者」の概念によって、主観と客観との対立が克服されるのです。対立を克服すれば、大きな観点から、世界を眺めることができるようになります。そして、大きな世界観を人間は持つべきなのです。小さな世界の中よりも、大きな世界の中で生きる方が、人間には自由があります。大きな世界観の中には、大きな自由も存在しているのです。小さな世界観を、「包越者」の概念によって乗り越えることを、ヤスパースは考えます。小さく狭い世界から、大きく広い世界へと、ヤスパースは視野を拡大させるのです。
 ヤスパースの考える「包越者」にも、種類があります。ヤスパースは、「包越者」を一種類だけ考えるのではありません。「包越者」にも、様々な包越者があり、そして、包越者同士の関係も考えられています。包越者の種類は、その包越者が何を包括するのかによって区別されます。ヤスパースは、世界を、主観と客観とに分けて基本的には考えます。そのため、包越者も、主観と客観とに関係付けされて考えられています。ヤスパースは、人間と世界とを、主観と客観とによって考えるのです。ヤスパースの世界観を形成する上で重要な、「包越者」の概念は、人間と世界とに関係付けられるのです。人間の存在と、世界の存在とを、全体的にヤスパースは考えるのです。人間と世界と、その両方の存在を、大きく、広く、全体的に統一する概念が、「包越者」ということです。
 まず、ヤスパースは、人間の存在と、世界の存在とを考えるわけです。それがヤスパースの世界観の基本的な態度なのです。そこで、包越者にも、二種類の包越者を考えることができます。一つ目は、人間の存在の包越者です。その包越者は、人間の存在を包括しています。そして、二つ目の包越者は、世界の存在の包越者です。包越者は、主観と客観との対立を克服している存在です。人間の存在も、多くの数と種類とに分けて考えられるものです。人間が生きている人数分だけ、人間の存在の特徴を考えられるのです。そのため、人間の存在の特徴を考え始めれば、限度がありません。世界の存在についても同様に考えることができます。世界の存在も、様々に、数限りなく考えることができます。人間の存在も、世界の存在も、複数考えられるのです。複数考えられれば、そこには主観と客観との対立が見られるのです。そのような、主観と客観との対立している状況を把握しなければなりません。人間の存在や、世界の存在を、様々に考えている時、そこには対立的な考え方が出現しているのです。対立する存在は、どちらも真実の存在ではないのです。「どちらの存在が真実であるのか」と考えている場合の存在は、どちらとも真実の存在ではないのです。複数の存在が対立している状況では、真実の存在を考えることはできません。
 真実の存在は、包越者であるとヤスパースは考えます。複数の存在を、包括する存在こそが、真実の存在であるとヤスパースは考えるのです。複数の対立する存在を、包括する存在が真実の存在なのです。人間の存在の包越者は、様々な人間の存在全体を包括しています。そして、世界の存在の包越者は、様々な世界の存在全体を包括しています。包越者は、存在そのものである、ということです。包越者は、主観の存在と、客観の存在とを、包括する存在なのです。そのため、包越者には対立がないのです。包越者は、存在と存在との対立を、包括する存在なのです。包越者は、個々の存在の対立が克服された次元に存在します。
 ヤスパースは、そのように、包越者をまず二種類考えるのです。しかし、ヤスパースは、包越者を二種類考えるだけではありません。包越者の種類は、他にも考えることができるのです。包越者の性質によって、包越者にも区別が考えられるのです。包越者に区別があることについては、それを対立していると考えてはなりません。包越者に区別を考えることを、包越者同士の対立と結び付けてはなりません。包越者にも種類を分けて考えられるのですが、しかし、包越者同士では対立していないのです。
 数種類に区別される包越者同士には、対立関係はありません。包越者同士は、対立関係にあるのではなく、依存関係のような状態があると考えられます。包越者にも、包越者を考えることができるのです。包越者は、自分を包括する包越者に、依存しているわけです。そのため、包越者については、究極的には一種類であるとも考えられるのです。真の包越者は、一種類であると考えることも可能なのです。つまり、包越者には区別を考えることもできるのですが、しかし、包越者の間では対立は起こっていないのです。包越者は、包越者の全体を包括する包越者に、最終的には総合されるのです。
 つまり、ヤスパースの世界観は、次第に、真の包越者へと上昇することが考えられている世界観なのです。まず、個別の人間の存在と、個別の世界の存在とが、それぞれの包越者に、包括されます。そして、それらの包越者も、その上位の包越者に包括されます。最後には、全ての包越者を包括する包越者の存在に行き着くのです。包越者の階段を上に昇って行き、そして、究極の包越者に出会うわけです。
 このようなヤスパースの世界観から、人間の究極の生き方を考えるのです。ヤスパースの考える究極の存在は、「包越者」なのです。そのため、人間は、究極の人生を生きるのなら、包越者に向かって生きるべきなのです。ヤスパースの考える真実の存在である、包越者に向かって生きるのなら、人間は、自分の持つ可能性を、最大限にまで発揮して生きることができるのです。ヤスパースの世界観を勉強して、人間の生きられる人生の可能性を、最大限にまで引き出すのです。包越者は、人間と世界の、究極の存在なのです。人間の存在と、世界の存在との、真実の存在です。そのような包越者を目標にして、人間は大きな人生を歩むべきなのです。








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