月曜日
日本の思想
井伊直孝という人物について
月曜日は、日本の思想の日です。今日は、井伊直孝という人物について考えます。井伊直孝(なおたか)という人は、徳川家康の天下統一を手伝い、そして徳川幕府に生涯仕えていた大名であったと考えられます。
まず、井伊直孝は、武芸に精進するべきことを言います。戦が起こった時、戦に出て行かなければなりません。しかし、武芸に励むことは、戦に出るためだけの目的ではなかったと考えられます。井伊直孝という人物の全体と、武芸に対する精進とが、密接に結び付いていたものであると考えられるのです。
それは、一つには、井伊直孝の職分である、徳川家への、「奉公」というものがあります。井伊直孝は、徳川家の家臣として、徳川家へ奉公しなければなりません。徳川家へ、一所懸命、奉公を尽くすことが、井伊直孝の職分です。徳川家から、井伊直孝は大きな「ご恩」を授かっているのです。徳川家からの恩義に報いるため、井伊直孝は徳川家へ奉公するのです。井伊直孝は、常に、徳川家への奉公のことを念頭に置いているのです。井伊直孝は、徳川家の家臣として、少しでも徳川家の役に立ちたい、と、常日頃から思っているのです。それが、井伊直孝の武芸の精進と結び付いているのです。井伊直孝の、徳川家に対する奉公の心と、武芸の精進とが結び付いているのです。武芸の練習は戦に出るためだけにあるのではない、ということです。武芸は人間性の向上とも、密接に関わりがあるのです。心身の健康状態を保つのです。
もちろん、武芸の精進は戦に出るための備えです。しかし、戦が起こらない時代となっても、武芸に励む必要があるのです。武芸に励むことには、様々な効用を考えることができるのです。まず、周りの人々の、井伊直孝に対する信頼感が生まれるものであると考えることができます。例えば、井伊直孝が町を歩いている時、向こうから泥棒が走って来たとします。その際、井伊直孝が、泥棒を取り押さえられれば、井伊直孝は大名としての威信を保つことができるのです。しかし、井伊直孝が、泥棒を取り押さえようとして、逆に泥棒に井伊直孝が投げ倒されたとすれば、人々の井伊直孝に対する信頼感が、下がってしまいます。泥棒を逮捕できない警察のようなものです。支持率の低下です。そのような、徳川家の家臣の行動は、徳川幕府全体の名誉に関わることです。ある会社の社員が犯罪で事件を起こせば、その会社の名誉も損なわれるのです。もしも徳川家の名誉を傷付けるようなことがあれば、徳川家の家臣としての職分を、井伊直孝は果たしていないことになります。井伊直孝は、徳川家から、多くの領地を得ているのです。恩義があるのです。その恩義には、報いるべきなのが人の道です。領地を受け取るだけの人間では、恩知らずです。井伊直孝は徳川家の家臣であり、そして徳川家からは多くの恩を受けているのです。そのことが、井伊直孝に、徳川家への感謝の気持ちを抱かせるのです。その、井伊直孝の、徳川家への感謝の気持ちが、井伊直孝を武芸に励ませるのです。武芸に励めば、井伊直孝は徳川家の立派な家臣となることができるのです。そして立派な家臣となって、少しでも徳川家の役に立つ行いをするのです。体の弱い家臣よりも、体の強い家臣の方が、役に立つ家臣であるのです。また、武芸は、体だけでなく、精神も強めます。精神の弱い大名では、頼りがいがありません。戦にも出られません。
つまり、基準があるわけです。家臣として認められるかどうかの基準です。その基準とは、戦に出られるかどうかです。その基準を、常に満たす必要があるのです。いつでも戦に出られる、という基準を、常に満たした状態でなければならないのです。つまり、それを現代において考える場合、徴兵制はなくとも、いつでも戦争に出られるような状態に自分を仕上げておくことが、国民としての自分の義務である、というように考えることです。戦に出られる状態であるかどうかの基準があるわけです。その基準を下回ることがあってはならないのです。徳川家からの戦の出陣の要請があれば、すぐにその要請に応じられるようでなければならないのです。そしてそのために、日頃から、有事のことを考えて、武芸に励む必要があるのです。
そしてまた、井伊直孝は、自分よりも上の地位にある存在への奉公だけを考えていたのではありません。井伊直孝は、自分よりも下の地位にある人々のことも考えています。井伊直孝は徳川家の家臣にあたる存在です。しかしまた、井伊直孝の家にも家臣が仕えているのです。そして、井伊直孝が治める領地に暮らす人々も大勢います。つまり、井伊直孝よりも地位の低い人たちが存在するのです。井伊家の家臣や、自分の領地内で暮らす人々や、そして他国の領地内で暮らす人々も、井伊直孝よりも身分は低いのです。井伊直孝は、徳川家への奉公の気持ちを強く持っていました。しかし、井伊直孝は、自分よりも身分の低い人たちのことをも考えていたのです。井伊直孝は、自分だけのことを考えて、武芸の稽古を積み、徳川家へ奉公していたのではありません。自分よりも身分の低い、民衆の生活のことも考えていたのです。例えば、井伊直孝の家臣が手柄を働けば、それに見合うだけの恩賞を、多く与えたということです。そして、民衆から取り立てる年貢を減らすことに努めたのです。国民の税金を減らそう、ということです。
しかし、井伊直孝自身は、常に節約、倹約生活に努めているのです。井伊直孝自身の給料の取り分は少ないのです。なるべく自分の家臣たちに給料を多く与えられるように考えていたのです。そして、自分の生活は、質素倹約で、贅沢を禁止するのです。井伊直孝は、贅沢をすることを考えるのではなく、武芸の精進のことを考えるのです。贅沢することに体が慣れてしまえば、戦には出られません。贅沢で体と心が弱くなるのです。質素な生活も、武芸の上達と結び付いているのです。そして、武芸の上達が、徳川家への奉公にも役立つのです。贅沢生活で体が弱くなれば、徳川家への恩義に報いることができません。そしてまた、自分が贅沢な生活をして、自分の取り分を増やせば、家臣たちの給料が減り、そして民衆たちの税金が増えることになります。井伊直孝の贅沢のために、家臣たちと民衆たちとが苦しめられることになるわけです。そしてもちろん、井伊直孝の贅沢のために、徳川家も苦しめられることにつながるのです。そのため、井伊直孝は、贅沢生活のことを考えるよりも、武芸の上達のことでも考えていた方が良かったのです。
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