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土曜日

現代の思想




フッサールの現象学について


 土曜日は、現代の思想の日です。今日は、フッサールの現象学について考えます。フッサールは、現代思想を研究する上で、欠かすことのできない、重要人物であると考えられます。フッサールは、サルトルやハイデッガーや、メルロ=ポンティなどの思想家たちに、直接的な影響を与えています。
 フッサールの現象学は、新しい科学の方法である、というように考えられます。フッサールの現象学も、科学である、ということです。しかし、一般的な科学者の研究する科学の方法と、フッサールの現象学で行う方法とでは、異なっている、ということです。フッサールの現象学も、客観的、普遍的な科学的体系を構築することを目指しています。そして、一般的な科学者の科学的研究も、客観的、普遍的な科学的体系を構築することを目的としています。では、フッサールの現象学と、一般的な科学者の科学とでは、どのように異なっているのでしょうか。
 フッサールの現象学も、科学としての、普遍的な厳密性を追求します。そして、一般的な科学もまた、当然、普遍的で厳密性のある科学を追及します。しかし、フッサールの現象学の方が、一般的な科学と比べて、より根本的に普遍的、厳密的な科学であると考えられるのです。根本的な程度の、度合いが異なるのです。フッサールの現象学の方が、根本的なのです。そして、その根本的な現象学によって、一般的な科学が成立するものであると考えられるのです。つまり、一般的な科学は、現象学を根底にして研究されるものである、ということです。人間にとって、より根本的に普遍性と厳密性のある現象学の体系の上に、一般的な科学の諸分野の研究が成立する、と、フッサールは考えるのです。現象学は、普遍的、客観的、厳密性を目指す科学ではあるのだけれども、それは、一般的な諸科学よりも根本的な科学なのです。
 例えば、フッサールの現象学とは、数学や論理学のようなものです。数学や論理学は、一般的な諸科学よりも、根本的に普遍性と厳密性のある科学である、ということです。なぜなら、数学と論理学を使用することで、一般的な諸科学が成り立っていると考えられるからです。数学と論理学によって、一般的な科学の研究が成立しているのです。現象学とは、そのような、数学や論理学のようなものです。数学は「数」、論理学は「論理」についての現象学である、と考えるわけです。その他、「数」や「論理」以外の、様々な分野についても、現象学の研究の対象とすることができます。そして、その研究された現象学が、一般的な科学の諸分野の研究にも生かされる、ということです。現象学は、科学よりも根本的な科学なのです。現象学は、科学を成立させるような科学であるのです。そして、現象学の正当性は、数学と論理学とが証明している、ということです。実際、数学と論理学とが、諸科学の研究を成立させているものです。
 フッサールが考える現象学と、一般的な諸科学と、それらに違いが生じる理由は、研究方法が異なるからです。研究方法が異なれば、現象学と諸科学とでは区別が発生するものです。フッサールの現象学は、どのような研究方法なのでしょうか。
 フッサールの現象学においては、「そのもの」が重要であると考えます。「そのもの」を大切にするのです。それは、本質のことです。現象学では、本質そのものを研究するのです。一般の諸科学では、本質そのものなどは、研究対象とはならないものです。一般の諸科学が研究対象とするものは、「本質そのもの」に、様々な要素が付け加わっているものです。「本質そのもの」ではなく、「本質そのもの」に、追加要素が付加されているのです。例えば、昆虫のセミを観察して研究する場合には、「セミそのもの」を研究対象にするのが現象学なのです。「セミそのもの」に、様々な要素を付け加えて昆虫のセミを研究対象にするのが一般的な科学です。フッサールの現象学を研究するためには、そのように、対象の本質に迫らなければならないのです。対象の本質そのものを扱い、研究する科学が、フッサールの現象学なのです。現象学の研究対象となるものについては、とにかく、余計なものを付け加えてはならないのです。
 では、どのようなものが現象学の研究対象となるのでしょうか。それは、私たちの前に現れて見える、そのものです。自分の前に見えて現れたそのままが、現象学の研究対象となります。そこに余計な考えなどを入れて、対象を加工してはなりません。自分の前に現れたそのもの、本質そのものをとらえるのです。直観するのです。本質そのものを見抜くのです。本質とは、余計な要素が付け加えられていない状態のものです。つまり、自分の前に現れたそのままが、本質であるのです。何か付け加えさえしなければ、それが本質なのです。本質そのものは、子供の前にも大人の前にも、現れているわけです。何か特別な能力を持たなければ、自分の前に本質そのものが現れない、というものではありません。本質そのものは、人間の全員の前に、常に現れているのです。その現れたそのものが本質であり、フッサールの現象学の研究対象になるものなのです。
 つまり、目が曇っていれば、本質そのものを見ることはできない、ということなのです。「何か特別な能力がなければ、本質は見えない」、というものではなくて、かえって、特別な能力を身に付ければ身に付けるほど、本質が見えないようになるのです。「常識」というものを備えた大人の方が、子供よりも本質をとらえられないのかもしれません。しかし、大人の前にも、本質そのものは現れているのです。現れたそのものが本質なのです。それが、大人の場合は、世間の常識などによって、目が曇らされているのです。大人は素直ではない、ということでしょうか。大人は、現れたそのものに、余計な考えを差し入れてしまうのです。現れたそのものを、そのまま受け取らない、ということです。大人は、見えるものを、何でも加工する習性があるのです。加工して、変化させて受け取るのです。
 つまり、フッサールの現象学で研究対象となるものとは、「百パーセント無添加の原材料」であるのです。原材料を扱う科学が、フッサールの現象学であり、そして、加工した材料を扱う科学が、一般の科学であると考えられるのです。フッサールの現象学では、純粋な本質を大切にするのです。純粋な本質こそ、根本的なのです。そうであるからこそ、現象学は、一般の諸科学を基礎付けることができるのです。余計な考えを付け加えたものは、材料としては根本的ではなくなっている、ということです。余計な考えを付け加える前と後とでは、材料の品質には差が出ると考えられるわけです。自分の前に現れたそのものを、そのままとらえるだけの話です。それは、全然難しいことではないはずであるのにも関わらず、多くの人たちが本質を誤ってとらえたりするのです。








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