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火曜日

西洋の思想




ヒュームの「因果関係」について


 火曜日は、西洋の思想を考えます。今日は、ヒュームの「因果関係」について考えます。ヒュームは、近代の西洋において、重要な役割を果たした人物です。
 ヒュームは、経験論の主義の考え方です。真理は、人間の経験の中に存在する、という考え方が、経験論の主義です。ヒュームは、経験論の考え方によって、「因果関係」を問題として扱います。
 ヒュームは、因果関係を、人間の経験と結び付けて考えます。因果関係というものは、法則であるとも、考えられるものです。ヒュームは、人間の習性の一つとして、物事に、すぐに因果関係をとらえてしまう、ということを考えるのです。つまり、人間は、物事に法則を考える傾向が多くある、ということです。ヒュームは、経験論の主張により、そのような、因果関係を否定するわけです。ヒュームは、物事には、必然的な因果関係を考えることはできない、と主張するのです。必然的であるのか、どうなのかが問題であるのです。ヒュームは、必然的であることを否定するのです。物事に、必然的な因果関係を推理することは誤りである、という主張です。この世界の中には、絶対法則というものは考えられない、ということを、ヒュームは主張するのです。
 人間は、連続して経験される、ある事柄と、ある事柄とを、結び付けて考えるものです。ある事柄を、連続的に経験すると、人間は、そこに法則を考えるわけです。人間は、経験から、因果関係をとらえて、そして、絶対的な法則を考えるのです。しかし、ヒュームは、そのような、確実な法則の存在を否定するのです。ヒュームが考える真実とは、人間が、現在において感覚している印象だけです。今の、瞬間瞬間の連続の中で、人間に感覚されている、印象だけが、ヒュームの認める真理です。現在、感じていること以外については、絶対に確実なことを言えない、とヒュームは考えるのです。
 「絶対に確実な真理」というものは、法則であり、因果関係を考えたものであるのです。それは、「ある事柄の後には、必ず、ある事柄が起こる」と考えるものです。つまり、結果が事前に分かっている、ということです。法則によって、まだ訪れていない未来が予測できるわけです。過去の経験から、物事に法則を発見して、未来を予知するのです。しかし、ヒュームは、絶対法則というものを否定するのです。つまり、ヒュームの主張では、人間は未来を知ることができないのです。なぜなら、確実な絶対法則が存在しないからです。真実は、過去の経験からは発見できないのです。真理は、現在の、この瞬間に感覚している、印象だけである、ということです。ヒュームの主張に従えば、自分の過去も信用できず、そして、世界の未来も信用できないのです。そのようなヒュームの経験論は、懐疑主義の主張であるとも考えられます。
 ヒュームの経験論は、あらゆる物事に、疑いを持つのです。しかし、懐疑主義は「あらゆる物事に真実を考えることはできない」と考えるのに対して、ヒュームは、真実を見つけているのです。その点では、懐疑主義とヒュームの経験論とでは、異なっているのです。ヒュームは、この瞬間の自分の感覚印象は、真実であると認めているのです。しかし、ヒュームの経験論は、懐疑主義と同じような性質を持っているのです。
 まず、ヒュームは、必然的な因果関係の存在を否定するのです。それは、懐疑主義と似た姿勢です。ヒュームは、真理を疑っているわけです。多くの人々が真理であると思っているものに対して、ヒュームは疑問を抱くのです。ヒュームは疑問を感じたのです。それは、懐疑主義の姿勢です。ヒュームの経験論に照らし合わせれば、多くの人々の信じている絶対法則が、否定されるのです。「確実な意見が言えない」という主張は、懐疑主義の主張と同様の姿勢です。
 例えば、ヒュームの主張では、明日も太陽が昇るのかどうなのか、分からないのです。過去において、いくら太陽が昇ることを見ていたとしても、それが未来においても同じ結果であるのかどうなのか、分からないのです。つまり、「真実が疑わしい」ということです。ヒュームのように、物事の因果関係を否定する態度であれば、全ての物事が疑わしく感じられるのです。日常生活にも支障が出るのかもしれません。ヒュームの考え方では、未来のことが全然分からないのです。その考え方が悪い方向に向かえば、不安だらけの生活を送ることになります。心配事と悩み事とが尽きません。しかし、それで日常生活が送れないわけでもありません。絶対確実を求めなければ、日常生活を送る上でも特に問題はないのです。
 ヒュームの因果関係を否定する説に対しては、受け入れ難い感じがするものです。つまり、ヒュームの説は、人々から非難の声が出るような説である、ということです。そのような、人々には評判が悪いと予想される主張をするヒュームには、度胸があったのかもしれません。ヒュームの主張に従えば、日常生活の中では、不便な思いをすることになるのかもしれないのです。そして、人間の人生全体に対しても、ヒュームの説には救いがない、ということです。ヒュームの説は、懐疑主義の説と、内容が共通しているのです。ヒュームは、真実に対して、解答を与えてはいるのですが、しかし、その結論は、真実の否定なのです。ヒュームの考える真実とは、真実の否定である、ということです。そのようなヒュームの説では、人々の気持ちは救われないのです。また、そのような説を主張する本人も、自分の説には救われない気持ちになるのではないでしょうか。それは、通常であれば、気に入らない自分の意見は、自分でごまかすものです。しかし、ヒュームは、いくら自分の考えた意見の結論が、自分自身にも気に入らないようなものであったとしても、それを隠すことなく、正直に申告したのです。ヒュームは、真実を真実として尊重して、それを受け止めた、ということです。
 ヒュームは、自分も含めて、人々に幸福をもたらすとは、一見考えられないような説を、真実として受け止めたのです。ヒュームの説は、耳障りの悪い説であるとも考えられるわけです。しかし、ヒュームは耳障りの悪い説を、訂正することなく、そのまま受け入れたのです。ここでは、「良薬は口に苦し」という言葉が当てはまるのかもしれません。ヒュームは、口に苦い良薬を、あえて飲み込んだわけです。ヒュームは、人間に救いをもたらさないような説から、逃げなかったのです。考え出された真実の結果が、たとえ厳しいものであっても、真実をヒュームは尊重したのです。「真実こそが、本当に人々を幸福に導く力であるのだ」という、ヒュームの信念です。むしろ、間違った説を主張することの方が、人々に災難をもたらすものかもしれないのです。真理が厳しいものであっても、その厳しい真理から逃避せずに、立ち向かう姿勢です。ヒュームは、そのような厳しい道を選んだのです。それは、ヒュームの精神力の強さです。普通の人では、ヒュームの説を支持することはできないのです。しかし、普通の人が支持することのできない説を、ヒュームは、支持することができたのです。








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